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上々堂(shanshando)三鷹

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2011年 05月 02日

根本的な問題

未曾有の震災に更に油を注いだような原発事故の根本的な問題は
なにか?について考えてみた。
私なんかが考えても何ともならんかもわからんと思いつつ考えずには
いられない。
もっと権限や発言力や見識のある人が考えてこそ、値打ちがあるんだろ
うと、思えばまったく徒労だなあ、しかし多分一番根本的な問題は、たぶん
そのことそのものなのだろうなと気がついた。

例えば、自分の家族を住まわせる為に家を建てる時、わざわざ泥沼に
砂をばら撒いただけのような、ぐずぐずの地盤を選ぶ人がいるだろうか?
何時崩れるかわからない断崖のうえの土地を選ぶ人がいるだろうか?
はたまた、工事中に手抜きがあったことを知っていて、暮らしているうちに
壁や床がたわんできても、見て見ぬふりして、なかったことににして、住
み続ける人なんているだろうか。
判断力や経済力が伴わず、即座に引越しできないような人だっている
かもしれないが、この国を代表するような最高学府に学んで、費用の点で
もまったく申し分ないのに、あえてそんなハイリスクな家に住み続ける人は
絶対いないだろう。
自分と自分の家族が住むのであれば。

ところが、これが不思議な事にそのリスクを抱え込む単位が大きくなると
本来優秀な人が小学生でもわかる判断ミスを犯すことになる。
マンションの耐震強度を改ざんするというような事件や社会保険として納
められたお金を着服したり、刑事裁判の証拠を改ざんしたり、というような
近年の犯罪は、元々社会のダークサイドに居て、判断力が麻痺している
ような人が犯したのではなく、社会的にも安定した立場に居て、学識も高
い人が犯した罪なのだ。
そうして、今度の地震でようやく明るみに出た。原発推進という巨大犯罪も
やはり、信じられないことに、一個人としてはおそらく健全な良識を持って
いる人たちによって、連綿と行われてきたのだ。
断崖の上の泥沼に手抜きの家を建て、ご丁寧に屋根の上には爆弾まで
乗っけるという、およそ信じがたい仕事を何故そんな優秀な人たちがして
きたか?

早い話が、彼らは自分がその家に住む気がなかったからだ。
農薬漬けにして育てた野菜を出荷はしても、けして自家消費には回さない
農家と似ている。
そうは言っても、いざ問題になったらこんなに大変なことを、誰か止めさせ
ようとした人はいなかったのか?と、誰もが言うだろう。
はっきり言うと、原発の危険を言い続けてきた人ははじめの頃からいた。
だけど誰もそういう「変わった人」の言う事なんか聴こうとしなかった。
それより、最高学府を出た優秀なお役人や国策会社のエリート社員の
言う事を聞くほうが良いに決まっている。大方の人がそう思っていた。
エリート達の側では、そんな庶民の安全なんか初めっから考慮の対象
じゃないのに。

戦後日本は身分制度などない民主的な国家だと信じてきたけど、本質は
国策によって農民を満州に入植させ、いざ軍事的な危険が迫ると平気で
捨て去った大日本帝国と支配階級の意識は変わっていない。民など
彼らにとって、駒にすぎないのだ。
人民の国を標榜しながら、実際は一部特権階級のために人民を泣かせ
ているお隣の国と大差はない。
結局、どのようなイデオロギーのもとでも、特権階級が国民を食い物にする
事に違いはない。

そんなふうに考えていると暗澹とするけど、希望がないとは思いたくない。
どうすれば、狂った特権階級の弊害を取り除く事ができるのか?
例えば、教育の完全な機会均等。
現在、東大に入学する学生の多くが東大出身者の子息であるといわれる。
東大を出て、高収入を保証され、エリート社会のなかで子育てをし、結果
その子どもも東大に入る。人生におけるどんな場面でも、貧困層と関わら
ないで育つから、今日の食事にも困る人たちの事情など、想像だにしてみ
ない。貧困率なんて数字の上だけの認識で、数字が増えれば先進国として
恥ずかしいから減らそうとするけど、社会保障など重篤にして経済の足を
ひっぱられるくらいなら、殲滅してしまったほうが早いんじゃないかとか言い
出しかねない。

結論を言おう。
心ある人の浄財をつのって、あるいは企業に寄付を募って、低所得の家庭
の子息向けの無料の学塾を作ったらどうだろう?
一説によると日本の教育は中学までは世界でもハイクラスだけど、高校、
大学生の学力は最低に近いという。それは、入試があまりにも技巧化したため
ではないか?
進学塾や予備校の教師は入試の合否は問題解決のための技術習得による
と言ってはばからない。
つまり「人間は考え方を手に入れた途端に俄かに賢くなる生きもの」であり、
賢くなるための「考え方」つまり技術は金銭で購える。ということ。

しかし、そんなものは勿論本当の知性じゃない、本当の知性というのは
創造的なものであるべきだ。創造性を欠いた知性など井戸の中で団栗の
背比べをする事には役に立つかもしれないけど、それ以上にはなりえない。
そうして、この国の公教育は「創造性」を養うことを旨としていない。

上々堂をやっていてつくづく感じる事は、実に多くの父兄が、シュタイナー
教育に対する興味をもっているということ、残念ながら、未だにそれを実践
している学校は国内には少ないようだが、こんなに多くの人が求めているのに
機会が増えない理由のひとつには、やはりシュタイナーの思想そのものが、
やはり日本人の歴史的宗教的風土と相容れない側面があるからだろうと思う。

多くの父兄がシュタイナー教育にみる理想的要素の大なるものは、記憶力
の増進より感受性に重きを置くところにあると思う。
まずは幼年期に充分に感受性を開いてやること、暗記や計算能力なんて、
慌ててやればそれだけ感受性を阻害することにしかならない。そんな無理を
して鍛えた脳など、コンピューターで充分代用できてしまう。

シュタイナー教育そのものがどれだけ日本の幼児教育に向くかは判らないが、
その優れたところに学び、真に創造性に満ちた知性を養うための創造性に満ちた
幼少年教育こそ、実は今一番求められるものではないか?
そうして、その教育は必ず無償で、そうして将来的には全ての子どもに行われ
なければならない。
とりあえずは、無料の幼少年向け学塾を!
ああ、お金があったらな……。

by shanshando | 2011-05-02 14:14 | ■古本屋子育て日記


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