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上々堂(shanshando)三鷹

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2005年 07月 22日

古本屋の掃苔帖 第十二回 阪田三吉

おそらくは、大阪冬の陣あたりに端を発していると
思われる大阪人の江戸・東京に対する対抗意識は、
阪田三吉が生まれ、少年時代をすごした明治初年に
は再び熱く燃え盛っていたのではあるまいか。
慶応4年の大阪行幸で期待満々に盛り上がった大阪
遷都がスッコーンとはずれ、あっさり都は東京に持っ
ていかれた。
毎度ながらシーズン序盤だけ勢いの良い阪神の野球
に似ている。(今年はどうなのか知らんのですが、どうなの?)
大阪人にコンプレックスをバネにして仕事をする人が
多いのは、こんな歴史によって培われたものかもしれない。
そして、そんな大阪人の象徴的存在が阪田三吉なのだ。

♪明日は東京に出て行くからは、何が何でも勝たねばならぬ。♪
名古屋なら負けてもええんかい!と、突っ込みたくなるが。

大阪名人を僭称したという理由で、永く棋界を追放された後、
ようやく和解して臨んだ昭和12年2月の南禅寺決戦で木村八段
と対戦した阪田は二手目で「9四歩」を指し、あえて二手出遅れの形
を作る。つまり「俺は大阪名人や、木村なんてこれで充分」
というパフォーマンスなのだが、これは粋がってみせたというより、
彼の大阪名人を支援し、煽ってきた関西財界の旦那衆に対するサ
ービス精神だったのかもしれない。
まさか、初めっからかなわんと思っていたから勝負を投げてかかっ
たのだとは思いたくないが…。
結局この戦いで破れ、以後プロ棋界からは身をひく事になる。

映画「王将」に描かれたイメージから、阪田というと暴れ者という
イメージがあるが、升田幸三によれば実はその指し手は慎重きわ
まりないと言うし、孫弟子の内藤國雄によれば教養こそないが、
非常に哲学的な思索をする人物だったという。
結局、本当はただ静かに将棋を指して生きてたいだけのおっちゃん
だったのかもしれない。
関西にはよく居るタイプの、おだてられるとつい町内会長を引き受け
てしまうおっちゃん。
こういう人を関西では「チョカ」という。
大阪という風土がチョカのおっちゃんを「王将」に仕立てた。
晩年不遇だったというが、好きな将棋したおして、概ね機嫌よう生き
はったのやろうと思う。

昭和21年7月23日、食あたりのため死亡。
享年76歳。
あけて24日、大阪は天神さんの宵宮である。

by shanshando | 2005-07-22 22:26 | ■古本屋の掃苔帖


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