2005年 10月 13日

古本屋の掃苔帖 第七十八回 徳田球一

手元に一枚の集合写真がある。
中央に上着の下に開襟シャツを着た禿頭の男が座り
20人の男女がそれを囲んで二列に並んでいる。
真ん中の男が徳田球一である。
柔和な表情だが、どこか殺気を感じさせるような厳しさが
ある。沖縄人には珍しい怜悧な顔立ちである。
今、私たちが政治家という言葉で連想する人相の類型の
いずれにも当てはまらない、あるいは幕末の志士といわ
れる人々はこんな感じだったのかもしれない。

写真には日付が記録されていないが、おそらく1946年
衆議院選挙の時であろうと思われる。
背景になっている民家には赤旗大津の文字が見える。
徳球が公然と共産党の看板を掲げ地方遊説できたのは
時期が限られる。
終戦までは、18年間網走の監獄に居たわけだし、1950
年にはマッカサー司令により、公職追放されている。

何故私がこの写真を持っているかというと、20人の取り巻
きの一番隅で旗に隠れそうになりながら写っている青年が
私の父親だからである。先日遺品の中から見つけたのだ。

これが1946年で間違いないとすれば、写真の中の父は
19歳の筈である。自分の親が今や自分の子供であっても
可笑しくない頃の姿をみるというのは複雑な心境だ。
父が若い頃に組合運動などしていて、ついにレッドパージで
当時の日本電気をクビになったと言うことは存命中聞いて
いたが、徳球の話など聞いたことがなかった。
晩年の父は地方官吏として終わり、どちらかというと保守的
な考えの持ち主だったように思うが…。

徳球こと徳田球一は家父長的な指導者として、戦後の共産
党に君臨し、公職追放後は地下に潜伏、武闘路線を指導し
たが結局宮本顕治等の国際派が袂を分かち、そちらが現在
の日本共産党として続くことになる。
浅沼稲次郎によると、徳球は思想、方法論の良し悪しは別に
して、集団の指導者として秀でた能力の持ち主であったらしい。
もしこの人物が生き続け、共産党を指導しつづけていたとしたら
全然違う戦後史が繰り広げられ、日本はいやひょっとすると、
東アジア一帯が共産圏になっていたかもしれない。

19歳の父は、戦争で父や兄を失い、若くして母親と姉を養わな
ければならない不安さの中に居た筈で、その不安さがこの親父
のようなカリスマに強く惹かれさせたのかも知れない。
ちなみにそれから14年後に生まれた長男である私に徳秀という
名を付けたのは、徳球に対する思いが残っていたせいかもしれ
ないというのは考えすぎだろうか?

徳田球一こと徳球は、潜伏生活から中国へ亡命、1953年10月
14日持病の糖尿病が悪化、北京で客死したと伝えられる。死後
55年までその死は中国共産党によって伏せられていた。
享年59歳
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by shanshando | 2005-10-13 23:48 | ■古本屋の掃苔帖


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