上々堂(shanshando)三鷹

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2005年 10月 18日

古本屋の掃苔帖 第八十二回 魯迅

1904年弘文学院速成課を卒業した魯迅は仙台医専に
入学するため、仙台にむかう。
弘文学院というのは、中国人学生のための予備校で校長を
嘉納治五郎が務めていた。仙台医専に進学したと言うことは
当然、医師をめざしていたのだろうが、すでに文学に対する
情熱もあったようで、この前年ベルヌの「月世界旅行」の翻訳
をしたりしている。

「藤野先生」という題で邦訳されている自叙伝「朝花夕拾」の
第九章でこの仙台行の事を書いているが、何故か唐突に地名
の話になり「東京を出発すると、やがて一つの駅についた。『日
暮里』と書いてあった」とある。
いまだ自分の進む道を決めかねている23歳の留学生の不安な
気持ちがその寂しげな地名に印象を残させたのだろう。

後に太宰治はこの「藤野先生」をもとに小説「惜別」を書いている。
「惜別」とは、仙台医専時代の魯迅こと周樹人の恩師藤野先生が
、結局医学を途中で投げ出し、文学に転向するため仙台を去る彼に
よこした自らの写真の裏に書いていた言葉である。
魯迅は帰国後もこの恩師の写真を壁に貼っていたという。

その帰国後、教育者、文学者として名をなし、地位を得た魯迅だが
1926年の張作霖の北京入城以来逃亡生活に入り、やがて上海
に落ち着くが、晩年は結核と闘いながら1936年10月19日に亡
くなるまで匿名などを用いて執筆を続けている。
その精神力は凄まじいものがあり、あるアメリカ人医師が西洋人な
ら5年前に死んでいると言ったということだ。
享年55歳。
尚、「藤野先生」が邦訳されることでその消息がつかめるのではな
いかと、魯迅が期待したとされる恩師藤野厳九郎は、昭和20年
8月11日(つまり終戦の四日前)73歳で亡くなっている。
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by shanshando | 2005-10-18 18:55 | ■古本屋の掃苔帖


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