上々堂(shanshando)三鷹

shanshando.exblog.jp
ブログトップ
2006年 01月 21日

古本屋の掃苔帖 第百六十回 大久保清

一度、東京高裁に宮崎勤の裁判を傍聴しに行った事がある。
早朝から列に並んで、傍聴券の抽選に勝ち残ったのである。
くじ運の悪い私だがこういうのは当たる。
満員の傍聴席には、佐木隆三氏の顔もあった。確か先ほど
の列にはいなかったはずだが。
やがて、開廷時間となり上手側の扉から入場した宮崎は、
永年の拘留生活のため脱色したように色白で、肥満のため
裄丈の合わなくなった上着を着込み、廷吏に引率されていた。
いや、むしろ両脇に廷吏を従えていたというほうが適切かも
しれない。その態度には悔悛も恥じらいも怯えも感じられず。
むしろ、舞台に登場した演歌歌手のように晴れやかで堂々と
していた。
顔を伏せる事も無く、傍聴席をやや微笑むように見渡した彼
は「今日も僕の為に集まってくれて有り難う。」と言ってい
るようだった。スター気取りなのだ。
「僕は重大事件の容疑者なんだから、そう簡単に死刑にでき
るはずがない。」というような言葉を外部の人間との文通の
なかでしているのを読んだ事がある。
また、裁判でも「早く、家に帰りたい。自分の車の調子が気
になる。随分乗っていないから」などという発言もしている。
彼は、現代の多くの人間がそうであるように、自身にとって
過酷な現実から逃避するために作り上げたバーチャルな世界の
住人になっていたのである。

生い立ちや、事件の内容に酷似したところが見られる大久保清
も、取り調べの経過や、裁判でさまざまな妄言を吐いている。
たとえば「俺は権力に反抗しているんだから…」などという発言
であるが、日本では婦女暴行犯で権力に影響力を持てるのは、某宗
教団体の名誉会長先生くらいしかいないから、高々、土地持ちの
馬鹿せがれの色魔が何を言うってなものだが、大久保の暴言は
未だ常人の開きなおりの内で、宮崎ほど自分の置かれている状況
を真剣に無視してはいない。

大層な言い方だが、大久保事件から宮崎事件までのほぼ20年の間に
日本人の中に巣食った仮想現実依存は深刻なものだと思う。
よくこういう場合やり玉に挙げられるのが、ゲームやアニメなどの
文化だが、じつはそれは一部に過ぎない。たとえば児童文学のなか
でも、「ハリーポッター」のような安易で安直な想像力を売り物に
するものの流行が、その傾向を助長していると言える。
街や建物はどんどん清潔さや明るさを増し、それに包まれている限り
は、豊かさの幻想のなかに酔っていられる。昔は、日本の町にも普通
に「死」や「朽ち」「汚濁」などがむきだしで偏在していた。人々は
そういうリアルな陰翳を基調に自らのそして他者の「死」と「生」を
見つめ、そのさきに「信仰」や「想像力」を置いた。
大久保清事件より宮崎勤事件が確かに重大なのは、大久保はあの時代
の特殊な存在でしかなかったが、宮崎は現代の幻想に飼い馴らされた
大多数の日本人の代表的な存在だと言う事だ。
これ以上、臭いもの汚い物に蓋をしつづけ、安手の幻想で人間を飼い
馴らしていると、次の20年後には日本はどういう国になっているだろ
う?

大久保清はちょうど30年前の1976年の明日1月22日に絞首刑となり、
まもなく宮崎勤もそうなるだろうが、彼等を殺しても社会的には根本
的な解決はなされない。私は死刑制度には反対ではないが、もし死刑
制度が問題の根本的解決をしないで、一犯罪者を処罰するだけで事を
沙汰やみにする制度として使われて行くとすれば問題が有ると思う。
といっても、事は現代の文明そのものを断罪しなければ何ともならな
いのだから。非常に難しいだろうが。
こんな日本捨てて、何処か外国にでも行くか?

大久保清、享年40歳
[PR]

by shanshando | 2006-01-21 18:00 | ■古本屋の掃苔帖


<< 古本屋の掃苔帖 第百六十一回 ...      スズキコージの絵本 >>