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上々堂(shanshando)三鷹

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2006年 01月 26日

古本屋の掃苔帖 第百六十四回 景山民夫

私のような不信心のかたまりのような人間でも、40年余
生きていれば、神仏があるものならばすがりたい気持ちに
なった事がある。
家族の病、子供の誕生など自分の我慢・努力だけでは如何
ともし難い時。
特に何の神だとか、仏だとかとも思わず、ただむやみに手
をあわせるくらいの事で、根が不遜だから事が済めば、そ
れが良い結果であろうと、悪い結果であろうと、医師の尽
力や当人の幸運を思うばかりで、神仏などけろっと忘れて
いる。
断定しては叱られるかもしれないが、事神仏・宗教という
ことに限定した場合、私は平均的な日本人だと云えるので
はないか。勿論、平均である事を誇るほどは、私も愚かで
はないので、別に自慢しているのではない。かといって羞
じもしないが。

人類は今までに幾つの神仏・宗教を創造してきただろう?
人類は宗教を造るのが好きなのだ。多分。SEXや飽食や飲
酒以上に。ドラッグなんかメじゃない程に。
私は嵌った事がないので知らないが、様々な新興宗教やその
類似品に群れ集う人々の様子を見ていると、実に気持ち良さ
そうである。
組織や教義に身を委ねている限り、自分を疑う必要が無い。
どのような快楽も自らを疑い、自ら物事を判断しようとして
いるうちは得られない。快楽はつねに判断停止の先にある。

景山民夫が幸福の科学に走った時、多くの人が嘲笑と共に
疑問に思った。「なんであの人が、あんな愚かな事を?」
しかし、どっちが愚かかは判った物ではない。
彼は、彼を嘲った連中には想像もつかない快楽をそこに見い
出したのかもしれない。いや多分そうだ。
「だってさ、O川隆法ってキ○○イじゃん、自分をキリスト
とか、釈迦とか云っちゃってさ。」などと言うことを云って
いる人は、永久にその快楽を知れない。キリストや釈迦だっ
てキチ○○だったかもしれないし。たとえまさしく○チガイ
だったとしてもそれが何だというのだ。自分で判断している
うちは、救われないのだ。
景山は多分永年マスコミという宗教に属していて、それじゃ
あんまり効かなくなってきたから、幸福の科学に乗り換えた
のだ。キット。

景山民夫は1998年の明日、1月27日に自宅の火災で一酸化
炭素中毒になり死んでいる。一説によると自殺だったという
が、私はO川先生のありがたい教えによって、生きてるよりもっ
と気持ちいい事を教わったに違いないと睨んでいる。
享年50歳
尚、一部のサイトで26日を命日としているものがありますが、
実際は27日の午前一時半に他界したようです。

by shanshando | 2006-01-26 17:51 | ■古本屋の掃苔帖


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