2006年 04月 08日

古本屋の掃苔帖 第二百二十二回 武者小路実篤

京王線の仙川とつつじヶ丘の間にこんもりと緑が生い茂った
一帯があり、そこに実篤公園がある。
園内には、ふたつの池と様々な樹木に囲まれて実篤旧邸も
残されている。北西には線路を挟んで甲州街道の喧騒がす
ぐそこにあるとも思えない静寂な空間で、東京近郊の散歩ス
ポットとしてはお薦めの公園である。

武者小路実篤といえば、例の「仲よきことは…」の色紙と、「新
しき村」であるが、今の若い人は「新しき村」なんて云っても、
何の事だかわからないだろう。
武者小路実篤は、多くの明治の作家がそうであった中でも、特
にトルストイの影響を強くうけた作家であり、「新しき村」はトル
ストイの理想主義を日本で実践した共同農場である。
その第一号は大正7年に宮崎県児湯郡に作られたが、ここは
昭和13年にダム工事のため一部が水没したので、翌14年に
は第二号を埼玉県入間郡に開いている。(両方とも現在も続い
ているらしい、詳しくは「新しき村ホームページ」をご覧ください。)

武者小路は、明治18年公卿華族 武者小路実世の末っ子として
生まれている。父親は明治政府から5年のドイツ留学を命じられ
た程の秀才であったが、実篤の幼時に35歳の若さで亡くなり、
そのために実篤は家柄からすれば質素な幼年期を送っていて、
この事が後にトルストイの理想主義に共鳴する一因となったので
はないかとも思える。
明治18年生まれといえば、一昨日書いた尾崎放哉がやはり同年
の生まれで、二人はほぼ同時期に東京帝大に在籍して、同じ時
代の空気を呼吸して青春期を過ごしているわけだが、生き方、考
え方は間逆と言ってよく、明治後期から大正にかけての時代の
気分を探るのに好対照の人生だと思う。
狷介ゆえ人と和せず、無常観から仏教にすり寄って行く放哉と、
自ら務めて楽天的になり理想主義に邁進する武者小路、どちら
も等しく、伝統的価値観を喪失した日本のインテリの典型的な姿
であったのだろう。

大正年間には「或る青年の夢」などの反戦的な作品も残している
武者小路はしかし、御多分にもれず戦争協力の著作を行ったた
め、戦後公職追放になっている。
公職追放は占領軍が少なからぬ偏見をもって行った事にしても、
他の文学者より明確に人道意識、理想主義の強かったはずの武
者小路が、あっさり戦争協力の筆をとってしまうのは、人間の弱さ
なのだろうか?あの時代を振り返り、始まってしまった戦争だから
負けて良いとは誰も思わなかったという事を書いている人が多い
が、それを言ったのでは言論は永久に時代の強権に抗う力を持ち
得ない事になりはしないか?

公職追放をうけ一時雌伏した武者小路は、昭和24年「真理先生」
で再び文壇に復帰、26年には追放解除。戦後、「新しき村」は入村
希望者も増え、養鶏などにより事業としても成功し、陶芸作品など
民芸の分野でも活躍している。

武者小路実篤は1976年、90歳で老衰のため死去、遺骨は「新しき
村」にある大愛堂に納骨された。
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by shanshando | 2006-04-08 16:10 | ■古本屋の掃苔帖


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