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2006年 05月 30日

古本屋の掃苔帖 第二百五十二回 蔦屋重三郎

蔦屋重三郎が鱗形屋孫兵衛という版元の出していた「吉原細見」
の記者兼、編集者兼、卸し小売御者として出版の仕事に手を染め
たのは安永3年、24歳の時である。
その2年前に老中になった田沼意次によって重商主義がとられ、景
気はよく、同年の7月には自ら版元として「一目千本」という、遊女の
評判記を出版しており、それを足がかりに版元としての地位を固め、
やがて黄表紙や浮世絵の出版を通して、京伝や歌麿、写楽といった
スターを生み出していくのである。

彼が出版人としての順調なスタートを切れたのは、まず土俵とした
のが吉原だったことにあるだろう。父親が吉原の勤め人であり、必然
幼いころからその里の空気に馴染んでいたことは想像に難くない。
当時の吉原は既に移転後の新吉原であるから、朱引き外ということ
になり、所謂江戸っ子という概念からは外れるのかもしれないが、こ
の江戸一番の歓楽街は、当然ファッションや文化的にも江戸の中心
であったろうから、彼は幼時にして洗練された雰囲気とセンスを身に
つけることが出来たのだ。
もし、彼が地方出身であったり、あるいは江戸生まれでも物堅い職人
の家にでも生まれていたら。そもそも出版などという水商売に手を出
そうとは思わなかっただろう。そうすれば歌麿や写楽の仕事もなかっ
たかもしれない。

先述したように父親は、吉原の勤め人である。勤め人といっても恐らく
牛太郎などではなく、番頭のような立場の勤め人であったのではない
か?だとすれば……ここからは完全に妄想であるが……名作時代小
説「吉原御免状」に登場する庄司甚右衛門の配下だったということも
考えられる。のちに享保の改革で弾圧され、それでもしぶとく出版事業
を続けた蔦重の人となりを思うとそんな妄想もあながち見当はずれとは
言えないような気がする。

明日、5月31日は1797年(寛永9年5月6日)48歳で死んだ蔦屋重三
郎の209回目の命日にあたる。
死因は江戸病といわれた脚気と言われている。
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by shanshando | 2006-05-30 16:07 | ■古本屋の掃苔帖


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