上々堂(shanshando)三鷹

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2006年 07月 11日

古本屋の掃苔帖 第二百七十三回 鈴木大拙

虚仮の一念という奴で、青息吐息、誤魔化し、まやかし、はったり、とぼけ
で、ともかくも一年を折り返した掃苔帖だが、正直ここまででの間に自分が
なんとモノを知らないかを思い知らされた。
世界は多次元に亘って広大無辺、知らない事が知っている事より遥かに多
いのは、何も俺ばかりではないと開き直っても、実際に資料になる文献にあ
たる時の理解力のなさは粗悪な頭脳を恨むよりほかない。
三島由紀夫は、「豊饒の海」を書くにあたって仏教の唯識に関する書物を松
山俊太郎氏に借りて、「本を読んで初めの三ページで何が書いてあるのか
さっぱり判らなかったのは、これが初めてだ。」というような事を言ったとかで、
そんな高レベルの話と私の馬鹿を一緒にしては申し訳ないが。世の中に溢れ
る書物がすべて、わかり易く書かれていることをもって善しとするのは、間違
いであるくらいの事は、馬鹿にも判っている。

大体において私は仏教との機縁が比較的多い人生をここまで送ってきていて、
他の宗教よりは仏教に幾分の関心があり、なかんずくストイックなイメージのあ
る禅にはミーハー的な憧れを感じるのだが、何せ頭脳の不都合だけに留まらず、
性根も定まっていないので、仏教書の類を読んでもチンプンカンプンである。
昨今のように蒸し暑さに悩まされ、いつもに倍して性根が浮つくと、せめても書物
から戒めを得ようとて、店の棚から鈴木大拙の著書を取り出して読んでみたりす
るのだが、宗教書というものは今流行りの自己啓発本とは違って易しくなんて書
いてないので、結局判ったつもりの「つもり学問」で終わってしまう。
それでも、文字に親しむことの有り難さは、わからんながらも一時の平穏を精神
にもたらしてくれ。その夜くらいは妙に悟ったような顔で、帳場に座っているが、こ
れでは結局折角の書物を自己啓発なみにしか使っておらず。早い話が宝の持ち
腐れ。

と、ここまで書いて気が付いた。
誰に頼まれたわけでもないのに、完読したこともない、どうあっても歯が立たない
大碩学について書かざるを得ない今日の様な場合の逃げの一手には、少しく長け
てしまった、おっちょこちょいの古本屋である

禅は印度で御釈迦さんが、なんの罪もない小さな草花をキュッと捻って見せて、
それを観た弟子の迦葉さんがニコッと笑って見せたという、なんだかオカマ同士
の睦み合いのようなコミュニケーションから始まったとされ、それが中国で錬られ
道元や栄西によって日本に伝わり、もうひと錬り。今や世界に探求者を増やして
いるこの宗教哲学を世界に広めた鈴木大拙は、間違いなく二十世紀日本で最も重要
な宗教者であったに違いない。然るに、1966年この大碩学が95歳の天寿をまっと
うした時に、その訃報を伝えたアナウンサーは「禅」を「蝉」と読み違えて、「世
界的に有名な蝉の研究者…」とやったという。大笑い。

明日は大拙忌である。
大拙の名の言われは、大賢は愚の如く、大巧は拙の如しという言葉から来ている。
私の拙い文章も、実はほとばしる知性の裏返しなのだよ。ハハハハハ。
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by shanshando | 2006-07-11 16:48 | ■古本屋の掃苔帖


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