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上々堂(shanshando)三鷹

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2006年 10月 27日

古本屋の掃苔帖 第三百三十回 前田光世

愛国心、国家への帰属感が希薄になったといわれるが、一般に
どんな枠組み・集団であれ、人々が帰属感を強くするのは具体
的にそこを離れた時であるようだ。例えば、ブラジル日系人の
勝ち組・負け組騒動に観るような、過激なばかりの国家への思慕
は、当時ですら国内に住んでいた人の何層倍でもあっただろう。
してみると、安倍国粋主義内閣の施政方針は、ここでも矛盾を
抱えていることになる。
もし愛国心を国民に刷り込もうというのであれば、「日本語も満足
に話せないのに英語教育など無意味」などと言ってないで、ドンド
ン英語を初め外国語教育をさせて、若者を海外に送り出すべきな
のだ。そうすりゃお好みの愛国者ができあがる。
…というのは実はちょっと嘘で、当然国家の思惑通りに愛国者に
なるヤツと、よその国の文化に触れて日本が益々嫌いになるヤツ
が出てくるだろうし、外国で働いて外国で生活すれば、日本では
納税しないわけだから、国家にとっておいしいことはなにもない。
多分そのへんを考えて、「早期の英語教育など不要」と言ってる
んだろうな。

日系移民の歴史は、明治元年にイギリスのブローカーに売り飛
ばされてハワイに行った153人から始まっている。以来、国策に
よる大陸移住が大幅に増えた時期はあるが、これは当時として
は、国内移住と変わらず。敗戦とともに無くなったわけだから。
結局、歴史的にも日系移民の最大の受け入れ先はブラジルとい
うことになる。

コンデ・コマこと前田光世が柔道指導の目的でアメリカに渡った
のは1908年、南方熊楠が帰国した8年後である。以来、いわゆ
る異種格闘技戦をやりながら欧米を転戦するのだが、やがて排
日気運の高まりを受けて、南米に移住、ブラジルで現在グレーシ
ー柔術と云われているものの基礎を作る。
そもそも初めの訪米の時、同行した富田常次郎が調子にのって
アメフトあがりの肥大漢に敗れたのを日本男児の恥として、雪辱
のための欧米転戦であったといわれるが、それにしてはあまりに
永い在外生活である。そもそも実際に敗れた富田が雪辱のため
というならわかるが、負けていない前田が行ったというのは解せな
い。富田では実力不足というならわかるが、富田常次郎といえば
西郷四郎などとならんで講道館四天王の一人、関係ないが「姿
三四郎」の作者富田常雄の父でもある。段位も上であったはずだ。
なのに何故前田が?
前田光世は実力から海外派遣までされたものの、講道館では冷や
飯を喰わされていたのではないか?初段への昇段審査の時も嘉納
治五郎の命で彼だけ十五人抜きを課せられている。
それは見方によっては、目をかけられていたとも見えるが、そんなに
目をかけられていれば、海外遠征をしたとしてもいずれ帰国してい
る筈である。なのに彼は、排日気運が高まった時ですら帰国してい
ない。帰国すれば海外で負け知らずの武道家として、相当の地位
も望めたはずなのに。

これは私の憶測だが、彼は日本人ではなかったのではないか?
ブラジルに定住後名乗ったコンデ・コマのコンデは伯爵を意味し、
コマには高麗の字をあてはめている。つまり高麗伯爵なのだ。
彼の死後、講道館は七段を追贈しているが、一説には生前は興行
試合に出たかどで破門状態であったともいう。
四天王とならぶ、イヤあるいはそれ以上の実力を持ちながら、サーカ
スの見せ物にまで出たコンデ・コマこと前田光世は1941年の明日
10月28日アマゾンで死んでいる。
享年61歳

by shanshando | 2006-10-27 17:58 | ■古本屋の掃苔帖


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