上々堂(shanshando)三鷹

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2007年 10月 23日

数学的思考と料理

パスタを茹でるのに大鍋に水を張り、コンロの火を点し、さあ煮え立つ
まで読みかけのミステリーの続きでも……というのは実際に料理を
しない人の考えること、あるいは実際に行ってもせいぜい自分が食べ
る分だけ用意すれば済む人の考える事で、日常的に人の食膳を整え
る必要のある人はそんな悠長な事は考えない。
湯が煮え、分量のパスタが適度に茹で上がったら、それを供するまでは
腕が3本でも4本でも欲しいくらいに気ぜわしいのだから、湯が煮え立
つまでの間にすることは山ほどある。絡めるソースを作ったり、サラダ
を拵えたり、器を温めたり、サラダにはドレッシングも必要だし、飲み物
の心配もしなくてはならないし、それらの間にはアラーの神を讃える事
も忘れてはならない。順番やタイミングを間違えては全てが台無しだ。

プロの人のことは良く知らないが、家庭でする料理は事前のイメージ
トレーニングで成否が決まるといってもいい。食べる人の好みや健康
状態、後片付けの手順まで検討要素にいれると、これはもう一種の数学
的想像力を要求されるといってもいいのではないか?

プロの人のことは知らないと書いたが、それは大きな厨房なら当然分
業化されていたり、逆に小さな所はメニュウを限定し、手順をマニュアル
化しているだろうと想像するからで、そのマニュアルなり分業を確立する
まではやはり数学的想像力が必要とされるに違いない。

数学的想像力……とここで勝手に私が言っている物が本当に数学的か
どうかは責任持てないが……の中に身を置くことは一種心地よくもある。
我というものを極力忘れて、合理的に身体を動かす。創意やオリジナリティ
はイメージトレーニングの以前に終わらせて置くべきことで、イメージトレ
ーニングはあくまで合理的に、動き出せば完全に機械になることだ。

料理人にとって全てが終息するのは最後の一枚の皿を洗い終えた瞬間
で、共に食膳についていたとしても味を楽しむなどという気には到底なれ
ない。食べる人が料理を口に運ぶ順番にさりげなく眼を配ったり、味の濃淡
に対する微調整に対応したり、ということを相手に気遣わせないようにやる。
そんなことをしながら食事をして美味かろう筈がないが、それでも料理を
するのが好きなのは、それが私の生活の中で唯一数学的想像力を生かせる
時だからだろう。

最後の一枚の皿を洗いながら、私はその日の自分を採点し、ほくそ笑む。
人の評価はあまり気にしない、人は自分が料理しなくて済むとなれば、心に
もないお世辞をいうものだし、中に臍の曲がったのが料理のコンセプトその
ものをクサそうとも知ったことではない。私にとって大事なのは自分がイメー
ジした流れが美しく実行されたかであって、味なんか二の次なのだ。

昨夜の鰻の蒲焼きサンドは中々美しい流れだったし。今朝のレモンマーマレ
ード入りリゾットも素晴らしかった!今夜のドーナッツ入りうどんもきっと成功
するだろう。
ひとつ気になるのは家族が最近みなダイエットを宣言していることだ。
私の料理の素晴らしさについつい食べ過ぎることを恐れる気持ちはわから
ないでもないが、行き過ぎたダイエットは考え物だ。
アラーの神の怒りに触れねばよいのだが。
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by shanshando | 2007-10-23 16:41 | ■原チャリ仕入れ旅■


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