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2005年 07月 31日

古本屋の掃苔帖 第十九回 徳川夢声

どうもこんな商売をしていると、趣味が爺むさくなっ
ていけないが、私は落語や講談、浪曲などの音源を聴
くのが趣味である。
いつか、有り余る時間を得たらやってみたいことがある。
どこか田舎に…、そう東京近県はいけない。
もっと遠く、たとえ仕事が追いかけて来ても、もうどう
しようもないぐらいの遠い、そして山深い田舎に庭付き
の一軒家を借り、オーディオセットを備え、好きな音源
を聴いて過ごすのだ。
朝は、音楽が良いだろう。ジャズでもクラッシックでも
ただ身体に素直にはいる音がいい。
午後は散歩や釣りに出掛け、日が傾いた頃もどり夕刻から
酒を飲みつつ、話芸の音源を聴くのだ。
長い物がいい。
浪曲は、たとえば虎造は今もよく聴くが、どちらかと言えば
都会むきで、田舎のそうした環境にはむかない。血が騒ぎ過
ぎるのだ。
落語なら 志ん生・談志より円生・小さん。そして、なにより
そんな状況で聴きたいのが、夢声の「宮本武蔵」である。
夏、暮れかかった庭を眺めながら、冷や酒を傾け、全20巻の
CDを一日一枚ずつ聴き進む。終わりまで聴いたら、他の音源
を数日楽しみ、そしてもう一度あたまから、気がつくと秋の匂い。
なんてーぇのは私の場合あと30年くらい無理だろう。
30年経つと、75歳である。そんな夏をふた巡りぐらい味わっ
て死ぬと夢声とおなじ享年になる。

徳川夢声、本名福原駿雄。活動写真の弁士として大正期から売り
出し。メディアの変遷とともに常にトップスターのひとりとして
活躍。文筆家としてもたくさんの著書を残している。その、間をた
っぷり取る話術は、今のラジオ、テレビだと放送事故と間違われる
かもしれない。「宮本武蔵」は吉川英治の小説の朗読を1961年
から3年にわたりラジオ関東で放送したもので、これには様々な逸
話があるが、それは本で読んで下さい。
夢声に関しては、本人の著書以外にも色々な人たちが書いているの
で、その関連を探すだけで蒐集の一ジャンルになるかもしれない。

1971年8月1日脳軟化症で死亡。
享年77歳。
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by shanshando | 2005-07-31 13:32 | ■古本屋の掃苔帖
2005年 07月 30日

古本屋の掃苔帖 第十八回 朱里エイコ

坪内祐三さんに「一九七二」という著書がある。
1972年を日本人の歴史意識に断絶が生じた
年であるとして論じているが、今はあまり関係
ないので置く。

1972年、懐かしい年である。
札幌冬季オリンピック、浅間山荘事件、沖縄返還
横井さん救出。「ゴッドファーザー」「ポセイドン
アドベンチャー」。「木枯らし紋次郎」「必殺仕掛
人」「藍より青く」。「HOW TO SEX」「二十歳の
原点」。「同棲時代」「ポーの一族」「デビルマン」。
「ぴあ」が発刊され、田中角栄が日中国交正常化を
はたし、千日デパートや北陸のトンネル内で火災が
起こってる。
流行歌では「岸壁の母」「結婚しようよ」「旅の宿」
「学生街の喫茶店」「瀬戸の花嫁」「おんなのみち」
「せんせい」。
そして、レコード大賞はちあきなおみの「喝采」。
どうです。懐かしいでしょう?えっ、半分もわから
ない?そうか、やっぱり断絶してるかなぁ?

まぁいい。この年の紅白に一人の女の子が初出場し
ている。その名もリトル・ダイナマイト朱里エイコ。
小柄だけど足が綺麗でミニスカートがよく似合い、
唄うと声にパンチがある。
ショウダンサーとしてエド・サリバンショーにも出た
母親の後を追うように若くして渡米、ラスベガスにも
出演したあと帰国。67年「恋のおとしあな」でデビ
ュー、同年レナウンのコマソン「イエイエ」を唄い
有名になる。
そして72年にだした「北国行きで」がオリコン6位
に入り、紅白初出場となる。
しかし、翌年もなんとか紅白出場するが後が続かず。
以後泣かず飛ばず、忘れられた存在となる。
近年、椎名林檎が彼女の曲をカバーしたり、根食真実と
いう歌手が「北国行きで」を唄ったりで再び注目されて
きたそうだが、2004年7月31日虚血性心臓麻痺で
死亡。享年58歳。
最後は薬物の為太っていたそうだが、そんなことはどう
でもいい。1972年のブラウン管には無茶苦茶かっこ
いいお姉さんが唄っていて、我々はいつでもそれを思い
出す事ができるのだ。
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by SHANSHANDO | 2005-07-30 23:08 | ■古本屋の掃苔帖
2005年 07月 29日

古本屋の掃苔帖 第十七回 幸田露伴

一個の人間の死はその本人のものであると同時に
家族があれば家族のものでもある。
勿論、家族に共有する意志があればの話だが。
当世は極ライトに共有するのが流行のようで、親の
死に目も仕事の都合が合えば立ち会うにやぶさかで
ないという人が多いようだ。
「殺さないだけで立派な親孝行」という言葉もあるらしい
から、都合でもなんでも立ち会ってもいいというぐらい
なれば、もう表彰ものの孝子かもしれない。
考えようによっちゃあ死ぬほうだって、それまで極冷淡
だった奴が、いざ死ぬとなると急に親身になったりする
のは、やはり財産狙いかと、あの世まで持っても行けぬ
ものに余計な気が残ってしまうから、却って最後まで一
貫冷淡が功徳になるかもしれない。

昭和22年の夏は暑かったらしい。
その暑さと戦時中の栄養不足が、露伴の死を早めたのは
間違いないことだろう。
幸田文「父  その死」、を読むとこの老人の周囲の人々は
実によくこの口煩い病人につくしている。
終焉の地となった市川の地は田舎で、露伴の名を知る人も
少なく、最後の蝸牛庵は天井板にベニヤを使っているような
あばら家だったが、それでもその一年前まで戦火のため死
んで行った人たちを思えば、いや現代の私たちから見ても
露伴の死は随分と幸福な死に思える。

文が医師の前で口中を浄めてやろうとして脱脂綿に含ませた
水を口に入れてやり、それを飲みくだしたところで息絶えた。
小林勇「蝸牛庵訪問記」によれば、医師武見太郎が心停止を
確認し、家族に臨終を告げると文が
「お父さん、お静まりなさいませ」といったと言う。

昭和22年7月30日、幸田露伴肺炎および狭心症で死亡。
享年80歳
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by shanshando | 2005-07-29 22:34 | ■古本屋の掃苔帖
2005年 07月 29日

古本屋の掃苔帖 第十六回 森敦

昭和9年、横光利一の推薦を得、新聞連載した「酩酊船」
から実に40年の沈黙を破り、「月山」で芥川賞を得た森敦
は、その時点ですでに62歳であった。

直木賞とともに文壇の登竜門といわれたこの賞も最近では、
そこから出た作家たちのその後の営業成績の悪さから、
出版業界の人々からは軽んじられていると、先日テレビの
経済番組で言っていたが、そんなことを森敦が存命で聞い
たならどう思っただろう?
本人が受賞する以前にも小島信夫や斯波四郎などを指導し、
芥川賞をとらせしめた森敦の生涯はまさに純文学の殉教者
のようだ。
また、いくらその批評や指摘が鋭いとは言え、そんな昔にちょ
っと注目されただけのオヤジの意見にしつこく耳を傾け続けた、
小島や斯波の姿勢も今の人間からは想像しにくいものだろう。

とにかく、小説「月山」はやはりこのオヤジが只者でないことを
証明してみせ、それから後の15年間、森は遅ればせながら
文壇の中に本来自分のいるべき位置をとりもどす。

1989年6月29日帝国ホテルで行われた岩波ホール支配人
高野悦子の還暦の祝いで、趣向として神父の役を演じてみせ
た森はその翌日から突然入院し、一度は退院するが、7月
29日腹部大動脈瘤破裂で死去する。

腹部大動脈瘤破裂という死因はどこがどうなるのか知らないが、
何しろ「金玉が、痛いっ!」と叫んだそうだ。

毎日のようにいろんな末期を調べていると、死という奴は一体
何処から来るのか油断ならん、と思う。

森敦 1989年7月29日、享年77歳
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by shanshando | 2005-07-29 00:15 | ■古本屋の掃苔帖
2005年 07月 27日

古本屋の掃苔帖 第十五回 外村繁

昭和23年12月、極度の貧窮の中、栄養失調と
心臓病で永年の苦楽をともにした、妻とく子を失
った外村はその経過を「夢幻抱影」として作品化
翌24年4月に発表、とく子への溢れんばかりの
愛情を哀切きわまりない文章に綴っている。
しかし、一年も経ずすぐに次の女房てい子とめぐ
りあい、その節操のなさをも昭和25年発表の作
品「最上川」に自ら描いている。

後妻のてい子は楽天的な性格の人だったらしく、
32年に外村に上顎腫瘍、35年にてい子自身に
乳癌が発覚してからも自分たちの事を癌夫婦とい
う意味で「ガン・フー」と名付けたりしたが、36年
7月28日外村が死ぬと後を追うように4ヵ月後の11月
26日死んでいる。てい子の性分が晩年死の間際
まで創作への意欲を失わなかった外村をささえた事
は間違いない事実だろう。

享年 外村繁 59歳 てい子51歳
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by shanshando | 2005-07-27 23:45 | ■古本屋の掃苔帖
2005年 07月 26日

古本屋の掃苔帖 第十四回 天知茂

1951年新東宝に入社した、天知茂は長い下積み時代を
経て50年代末いくつかの映画に主演するが、まもなく新
東宝は倒産。大映作品で勝新や雷蔵の脇役、敵役におさまる。
「座頭市物語」や「眠狂四郎無頼剣」では主役を喰うほどの存
在感をしめすが、結局映画では主役スターにはなれなかった。
三島由紀夫のひきで明智小五郎を演じた「黒蜥蜴」でもあくまで
主役は丸山(美輪)明宏で、この個性的な俳優が漸く主役でスタ
ーの座を得たのは、73年に始まったテレビシリーズ「非情のライ
センス」によってである。
 74年に天知自身の歌でレコード発売された「昭和ブルース」
は実は69年にブルーベル・シンガーズによってヒットした曲の
カバーなのだが、今では天知のオリジナルと思っている人も多い
のではないか?
「人類の進歩と調和」をお題目に万博で幕をあけた70年代だったが、
庶民の心情はこの歌の歌詞のように暗くネガティブなものだったの
かもしれない。
「非情のライセンス」は80年からはじまる第三シリーズで終了、そのあと
天知は「江戸の牙」や「明智小五郎」シリーズなどに出演するが、いずれも
今ひとつの出来で、自分でもプロデューサーや監督などやってみるが、
花開かず。
1985年7月27日死亡。享年54歳。
死因はクモ膜下出血。
トレードマークの眉間のたて皺は演技だったらしいが、半ば癖に
ってたのではないか。医学的なことはわからないが、あの顔をし
続けるのは顔から頭に集中する経絡を相当いじめそうだ。
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by shanshando | 2005-07-26 17:55 | ■古本屋の掃苔帖
2005年 07月 24日

古本の向こうの国

文庫の山を少しずつ整理しているのですが、その山の中から、
同一の人が売りに出したと思われる文庫が、いくつも出てくるのです。
その方の所有であったと思われる本にはふたつ特徴があります。

・巻末の既刊リストに鉛筆で傍線、丸印、レ印が入っていること。
・主に、本にまつわる新聞記事の切り抜きがはさまっていること。

チェックの入り方や、記事の丁寧な切り取り方から見て、同一人物で
あることは間違いないと思われます。
そして今日は、新聞の切り抜きと一緒に写真が入っていました。
正確には年賀状の写真部分のみを切り取ったもの。

写真には「94 10 8」と赤い印字。
90年代、わたしにはつい最近のことに思えるのですが、この写真の
日付ならばもう11年前のことなのですね。
玄関先、左腕をだれか大人の手にささえられ、3歳くらいの男の子が
写っている。おびえたようなびっくりしたような顔。
この男の子も今頃は中学生なのだ。背も伸びて、好きな女の子の
ひとりやふたりいて、本なんてちっとも読まないで、走り回っているかも。
切り取られた年賀はがきの表には、まだ5桁の郵便番号が。

わざわざはがきを切り取って持っていたくらいだから、大事な
写真だったのじゃないか。なぜ、これがはさまれたまま、売りに
出されてしまったのだろう。
それとも、ただ単に栞のかわりだったのかしら。写真つき年賀はがきの、
このかたさが栞にちょうどいいんだよ、なんて言って。

チェックされている本や新聞の切り抜きは、純文学や随筆が多い。
開高健『花終る闇』、秋山駿『人生の検証』、白洲正子『西行』、
以前には古井由吉や阿部昭、庄野潤三などがあった。
と思えば、リストにある野坂昭如の文庫すべてに印がついていたり、
『東西ミステリーベスト100』の上位30位に、チェックが
入っていたりする。幅広い。

これらの本を所有していた人に会うことは決してなく、この人が
どういう人物なのかもまったくわからないけれど、
こうして切り抜きを眺めたり、鉛筆の印を消していったりするとき、
わたしはこの見ず知らずのだれかに、ものすごく近いところに
いるような気がする。そして不思議と切実な気持ちになる。
この人が今も元気で、あいかわらずさまざまな本を読んで、リストで
時折、読んだ本と読んでいない本をチェックしたりしていますように、
と世界の平和を祈るような大きな気持ちで、思ったりする。
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by shanshando | 2005-07-24 19:48
2005年 07月 23日

古本屋の掃苔帖 第十三回 たこ八郎

20数年昔、私は新宿歌舞伎町の外れにある、終夜
営業の酒屋でアルバイトをしていた。
客の殆どは酔客とホステス、ホスト、娼婦、男娼。
深夜には浮浪者が拾った小銭をかき集めてウィスキーの
小瓶を買いに来たり、やくざがオロナミンCを函買いし
て行ったりした。(中身は捨てて、替わりに「小さな巨人」
になれる魔法の薬を入れるわけですな。)
そんなごみ貯めのような街の一角にたこ八郎が毎夜そこで
酔いつぶれているという店があった。
普通の定食屋なのだが、他の店では大抵ロハで飲んでいた彼
がそこではわりと律儀に金を払っていたという。
テレビで顔を知られていたので、他の酔客にからまれる事も
一切ならずあったらしいが、いつもけっして彼が手をだすことは
なかった。
もし出せば、酔っぱらいのサラリーマンなど下手すれば廃人に
なっただろう。彼の拳は凶器なのだ。
第十三代日本フライ級チャンピオン、リングネームは「河童の
清作」それが彼のもうひとつの姿だった。
ほとんど失明状態だった左目の不利をカバーするため、ノーガー
ドで打たせるだけ打たせ、相手が疲れたところで反撃するという
作戦で勝ち進んだ。殴っても殴っても向かってくる清作を対戦相手
は不気味に感じただろう。
この彼の戦いぶりが漫画「あしたのジョー」のモデルになったという。

やがて引退した時には完全にパンチドランカーになっていた。
1963年由利徹に入門、酒を飲むと寝小便をする、せりふは憶えられ
ない。この大変な弟子をしかし由利は終世可愛がり続けた。
由利だけではない、いろいろな人に彼は愛され、その人達によって死後、
入谷に「たこ地蔵」が建立された。
真鶴の海水浴場で焼酎を飲んで海に入りそのまま不帰の人になる前日、
彼は由利をはじめ世話になった人の家を廻っている。
由利には、「使ってください」とこづかいを置いて行ったらしい。
葬儀の席でタモリは「たこが海で死んだ。なにも悲しいことはない。」
と言った。追悼の言葉としては名言だと思う。

たこ八郎、1984年7月24日心臓麻痺のため死亡。
享年44歳。
明日明後日は都合により掃苔帖は休みます。
明日は店番日記を更新
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by shanshando | 2005-07-23 12:14 | ■古本屋の掃苔帖
2005年 07月 22日

古本屋の掃苔帖 第十二回 阪田三吉

おそらくは、大阪冬の陣あたりに端を発していると
思われる大阪人の江戸・東京に対する対抗意識は、
阪田三吉が生まれ、少年時代をすごした明治初年に
は再び熱く燃え盛っていたのではあるまいか。
慶応4年の大阪行幸で期待満々に盛り上がった大阪
遷都がスッコーンとはずれ、あっさり都は東京に持っ
ていかれた。
毎度ながらシーズン序盤だけ勢いの良い阪神の野球
に似ている。(今年はどうなのか知らんのですが、どうなの?)
大阪人にコンプレックスをバネにして仕事をする人が
多いのは、こんな歴史によって培われたものかもしれない。
そして、そんな大阪人の象徴的存在が阪田三吉なのだ。

♪明日は東京に出て行くからは、何が何でも勝たねばならぬ。♪
名古屋なら負けてもええんかい!と、突っ込みたくなるが。

大阪名人を僭称したという理由で、永く棋界を追放された後、
ようやく和解して臨んだ昭和12年2月の南禅寺決戦で木村八段
と対戦した阪田は二手目で「9四歩」を指し、あえて二手出遅れの形
を作る。つまり「俺は大阪名人や、木村なんてこれで充分」
というパフォーマンスなのだが、これは粋がってみせたというより、
彼の大阪名人を支援し、煽ってきた関西財界の旦那衆に対するサ
ービス精神だったのかもしれない。
まさか、初めっからかなわんと思っていたから勝負を投げてかかっ
たのだとは思いたくないが…。
結局この戦いで破れ、以後プロ棋界からは身をひく事になる。

映画「王将」に描かれたイメージから、阪田というと暴れ者という
イメージがあるが、升田幸三によれば実はその指し手は慎重きわ
まりないと言うし、孫弟子の内藤國雄によれば教養こそないが、
非常に哲学的な思索をする人物だったという。
結局、本当はただ静かに将棋を指して生きてたいだけのおっちゃん
だったのかもしれない。
関西にはよく居るタイプの、おだてられるとつい町内会長を引き受け
てしまうおっちゃん。
こういう人を関西では「チョカ」という。
大阪という風土がチョカのおっちゃんを「王将」に仕立てた。
晩年不遇だったというが、好きな将棋したおして、概ね機嫌よう生き
はったのやろうと思う。

昭和21年7月23日、食あたりのため死亡。
享年76歳。
あけて24日、大阪は天神さんの宵宮である。
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by shanshando | 2005-07-22 22:26 | ■古本屋の掃苔帖
2005年 07月 21日

古本屋の掃苔帖 第十一回 星セント

1981年5月に始まった「オレたちひょうきん族」は
すでに人気上昇中だったビートたけしの人気を更に
絶頂へと向かわせた。
その翌月、星セントはサンケイホールでサミュエル・
ベケットの「ゴドーを待ちながら」に出演している。
未だ無論「田園調布に家が建つ」で売り出した人気は
衰えていないが、このへんですでに両者のその後の
明暗が見えているような気がする。
よく言われるように日本の笑芸人は森繁以来、歳を
とると役者に転向したがる傾向があるが、この時点
でのセントは33歳で、これは将来に対する保険的な
布石というより、純粋に不条理劇に対する興味があった
のだろう。
インテリなのだ。
セントとたけしは、色々共通点のある芸人であるが、
決定的な違いはたけしには自分の知性が前に出てしまう
事を嫌う江戸っ子的な含羞が、後に映画監督になっても
なおあるが(作ってる映画は段々ひどくなるね)、
セントには何か自分がインテリであるとひけらかさないま
でも、そう思われる事を拒まないところがあったように思う。

セント・ルイスがその後の漫才ブームに残れなかった理由
として、その仕かけ人横澤彪に嫌われたせいだといわれるが、
嫌われたというより、セント自身が背をむけたのではないかと
思う。

「俺たちに明日はない、キャッシュカードに残はない」
「きゅうり、ピーマン、ナス別荘」などの言葉遊びのギャグは、
そこに更に毒を加えた、「赤信号みんなで渡れば怖くない。」
に駆逐され、セント・ルイスはやがてブラウン管から姿を消す。

2002年肺がんのため右肺摘出、2003年コンビ解消、
2004年7月22日肺がんのため死亡
享年56歳
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by shanshando | 2005-07-21 23:17 | ■古本屋の掃苔帖