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2005年 10月 30日

本屋が本を汚すな!

買取りで持ち込まれた本の地の部分に、赤い線が引かれ
ている。均一台に出す時に古本屋が引いたものだ。
私はこれをする古本屋が嫌いだ。
均一本の中には、その時代の流通量(古本としての)な
どの事情で、その書かれている内容とは関係なく、已む
無く均一台に送られる物がある。そうした本はまた時代
を経、あらためてお客様により古本屋に持ち込まれた時
価値を復活する場合もある。そうでなくともたとえ百円
でもお金をいただいて販売するものを古本屋が自らその
価値を減ずる行いをするのは、本という文化そのものに
対して愛情を持っていない証拠だ。やたら糊の強い値札
を使用したり、おもて表紙の顔ともいうべき処に平気で
値札を貼る行為もこれと同一の無神経である。
ちよっと頭に来たので、書いてみましたが皆さんどう思
いますか?

さて、随分秋も深まりストーブが恋しい季節になりまし
たが、お部屋で音楽を聞きながら読書というのは如何で
しょう?
上々堂のネット販売にはジャズ関係の本
が入荷しています。
そして古本屋の掃苔帖」は平成2年の明日亡くなった幸田文さんです。
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by shanshando | 2005-10-30 14:57
2005年 10月 30日

古本屋の掃苔帖 第九十三回 幸田文

「しかし祖父は、『喪はその整わんより、むしろ悼め』
 と母に言った。母はそれを守り祖父を送った。私の母は
 私の器量で送るのが相応であり、自分の力を超えた見送り
 をするために無理に人をわずらわせて何になろう。…」
青木玉の「幸田文の箪笥の引き出し」に収められた。「白い
着物」という文章には、昭和63年5月に母文が脳溢血で倒れ
た時の仔細が書かれている。

露伴の覚悟を受け継ぎ、そしてその死を渾身で看取った文には
あらかじめ自分が病臥した時の備えがあり、そこには寝具の予
備などと共に末期に着る着物も用意されているはずだった。
「その着物は白の麻に決まっているけれど、白はあまりに美し
 すぎる。血の気の引いた顔をむごく見せる、自分はその時に
 合った、多少古びた白に近い色がいいと思う。」
ところが、どういう訳か着物が見つからない。結局娘は自分の家
に急ぎ戻って自分の衣装からそれに見合うものを準備する。
私には、まだ本当に死んだわけではないのだから、そんなに慌て
る必要もなかろうと思えるが、結局そのへんが露伴流の仕込みに
よる「覚悟と備え」という事なのだろう。

三島由紀夫のように、自分の死を華々しく飾ろうとする文人もあ
れば、せめて末期と、去って後の痕跡を身綺麗にと考える文人も
いる。どちらにしても考えどおりには逝きにくいもののようだ。
昭和63年のこの時は結局、処置のよろしきを得て持ち直した幸田
文はその二年後の平成2年10月31日心不全によって亡くなり、娘
玉は件の白い着物を着せ見送っている。
享年86歳。
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by shanshando | 2005-10-30 14:21 | ■古本屋の掃苔帖
2005年 10月 29日

古本屋の掃苔帖 第九十二回 二代目神田山陽

講談の衰退の歴史は永い。
もう昭和の初めくらいからずーっともう駄目だ駄目だ
と言われて、かれこれ80年くらい衰退しっぱなしである。

今や、そもそも講談という藝がどういうものなのか知って
いる人も少ないほどである。
前に興居島屋で講談の会を催した時、チラシをもっていろ
んな人に挨拶してまわったさきで、「ああ講談ね、聞いた事あ
るよ。うん広沢虎造っていうの。」と言われた。
虎造は浪曲である。

講談はようするに、会話を中心に話を進めて行く落語に対
して、地の文、つまり芝居で言うとト書きにあたる部分を
読んで物語を聞かす藝である。
衰退した原因は色々言われるが、ようするに語られるモノが
義理人情忠心孝行などの古い価値観による辛気くさい話が
多いせいだと言われている。
最近、三代目山陽の活躍により、徐々に見直される気運もあ
ると聞くが、正直まだやっぱり衰退を止めるには至っていない
ようである。

さて、その三代目山陽の師匠になるのが今日の主人公、二代目
神田山陽である。
自伝「桂馬の高跳び」を読むと、この人は元々講談界にとっては
スポンサーのような存在だったらしい。
大阪号書店という、取り次ぎと出版社をかねた会社のお坊ちゃん
として生まれ、講談に入れあげ聞楽亭という釈場の再建に取り組
むがそのうち好きがこうじて、自分でも高座に出るようになり、気
が付くと戦時中の統制などの事情もあって、店を手放し芸人になっ
ちゃったという絵に描いたような道楽息子である。

お旦出身だから師匠らしい師匠がなく、そのため始めは自分で作った
品川連山という名を名乗っていたが、戦後大看板がいなくなった神田
派に迎えられ、落語家桂文楽の内輪として神田小伯山を名乗り、後
に二代目山陽を襲名した。
講談を生き残らせらせる為には、なにより時代にあった面白さを追求
しなくてはならないという考えから、女性弟子も積極的にとったため
現在残っている弟子の過半数は女性である。

その女弟子のひとり神田陽子さんと嘗てお会いしたことがあるが、華
のあるいい芸人さんだ。口跡も明瞭で明るい。まことに結構なのだが
私はどちらかと言うと昼日中の釈場で聞くおっさん芸人の渋い高座に
耳を傾けながら、うつらうつらとしたいほうなのだ。
そして陽子さんはじめの女性弟子、それから現山陽さんもこの先、
安泰だと思うのだが、心配なのはこのおっさん芸人のほうなのだ。

上野に嘗てあった有名な本牧亭がなくなり、今そこの名前を継いだ「
本牧亭」という飲み屋さんの二階の座敷で週末講談の会をやっている。
いろんな人々が書いている嘗ての釈場の雰囲気を残す貴重な空間である。
そこにいくと、今も尚この世の中から忘れられかけている藝に精進する
老若男女の講釈師たちが奮闘している。是非おでかけになってみて下さい。
ちなみに古本屋としても有名な田辺一鶴先生にもそこで会う事が出来る。

さて、戦後講談界の功労者二代目神田山陽は平成12年10月30日、老衰
による腎不全のため亡くなっている。享年91歳
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by shanshando | 2005-10-29 22:56 | ■古本屋の掃苔帖
2005年 10月 28日

古本屋の掃苔帖 第九十一回 マキノ雅弘

腹の中からの映画人である。
幼い頃から、父省三の作る映画に子役として出演し、
実質的な初監督作は18歳で作っている。

彼の自伝「映画渡世 天の巻 地の巻」を読むと、無
性にこの柄の悪い親父が好きになる。結構うけ狙いの
ヨタも多いようだが、その口調や話の内容から、映画人
ではなく、活動屋という人たちの体臭が臭ってくるようだ。
ヤクザっぽくって、無茶で、そしてヴァイタリティーに
溢れる男たちの世界。
小津や溝口とはまったく違う日本映画の青春時代がみえてくる。

有名な、早撮りの逸話、千恵蔵主演の「鴛鴦道中」の撮影開始が
絶望的に遅れた時、わずか28時間で撮りあげてみせたというのだ。
出演者、スタッフ全員が一丸となってこの難局を乗り切る場面は
読んでいる物の血をも熱くする。

映画の申し子マキノ雅弘は1993年10月29日85歳で亡くなっている。
息子正幸は安室奈美恵などを輩出したタレント養成学校の校長
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by shanshando | 2005-10-28 22:57 | ■古本屋の掃苔帖
2005年 10月 27日

おに吉vol3

しなさんのご質問に答える前に、ひとつお詫びがあります。
本日より配布されている「おに吉vol3」に一箇所間違いがあります。
すでに手にいれられた方は訂正をお願いします。
最終ページ吉祥寺のお店紹介欄の左上にある「旅の本屋 のまど」さんの
URLが間違っています、正しくは
 http://www.nomad-books.co.jpです。
誌面ではnomadoとoが入ってしまっています。「のまど」さん及び、
すでに手に入れられた皆さんにお詫びし、訂正します。

さて、しなさん有難うございます。
「おに吉vol3」は参加28店および、広告を寄せていただいたお店3店で
とりあえず配られます。お休みなどの関係で本日配本できなかったお店
も今週中には置かれるはずです。
参加店 <荻窪>岩森書店 ささま書店 竹中書店 常田書店 ひなぎく
     <西荻>ブックスーパーいとう 音羽館 かもめブックス 興居島屋
       スコブル社 盛林堂書房 とんぼ書林 にわとり文庫 ハートランド
       比良木屋 夢幻書房 信愛書店 三月の羊
     <吉祥寺>さかえ書房 外口書店 旅の本屋のまど 藤井書店 
      ブックステーション和 古本センター Bondi Books よみた屋
      りぶるりべろ トムズボックス
広告店 F-iwamori コクテイル アジアン・ドッグ

以上ですが、上々堂にも置いていますのでどうぞ。また明日からはじまる神田
青空市でも配布予定です。

さて、他店の宣伝はこのくらい、上々堂のネット販売には近々新しい絵本とジャズ
関係の本が出ます。乞うご期待。  

そして、今日の掃苔帖は正宗白鳥です
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by shanshando | 2005-10-27 23:53
2005年 10月 27日

古本屋の掃苔帖 第九十回 正宗白鳥

「暗黒の死の洞門へ一歩々々足を進めてゐる我々人間に
何の真の幸福があらうぞと私はつねに思つてゐる。屠所
の羊に異ならない身でありながら、幸福を夢みるのは不思議
なことだと思ってゐる。それにも関わらず、生きているうちは
幸と不幸、快と不快の感に動かされない時は無い。」

幼少の頃より、虚弱であった正宗白鳥は一生、死の陰を身近
に感じながら、それに真面目に向き合い考え惑い、生きていた
ようだ。
10代でキリスト教に関心をもち、19歳の時、植村正久によって
洗礼をうけた彼は、20代初め文学との出会いを期に棄教してい
る。いい加減なように聞こえるが実に真摯な葛藤があったのだろ
う。そしてこの葛藤は、どうやら彼が83歳で亡くなるまで続くのだ。

昭和31年、中央公論新人賞に当選した深沢七郎の「楢山節考」
について彼が「私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃ
ない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである。」と絶賛し
ているのは、まさにその時すでに70代後半になっていた彼が童子
ように死の陰に怯えを感じていた証拠だろう。
もっとも評された深沢七郎のほうは「私はこの小説を道楽で書いた。
」といなしている。深沢らしい含羞ゆえなのだろう。おそらく。
ともあれ、このちぐはぐな応酬にも関わらず、二人はその後師弟の
縁を持ったようで、昭和37年10月、正宗の死の床に駆けつけた深沢
は、正宗が内村鑑三に影響を受けたと話すのを聞き、「先生はその
内村という人に会いたがっている」と思い。「その人には何処に行けば
会えるか?」と聞いている。さすがは深沢七郎である。

若い頃はおそらく漠然とした恐怖だった死が、老いるにつれて現実み
を帯び、最晩年の彼は人の死に様から、葬儀の形式にまで関心を持
つようになり、死の年ついには若い頃棄てたはずのキリスト教による
葬儀を望んで受け入れられている。

正宗白鳥、昭和37年10月28日膵臓癌による衰弱のため死亡。享年
83歳。
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by shanshando | 2005-10-27 23:16 | ■古本屋の掃苔帖
2005年 10月 26日

おに吉vol3出来!

はい、お待たせしました。やっと出来ました。明日夜くらいから
配り始めるでありませう。
今回も豪華執筆陣!残念ながら今回も三鷹は範囲外にされち
ゃったけど。

さて、上々堂はネット販売も徐々に注文が増えてきた昨今。
いくらでも本が欲しいところです。皆さん是非本をご処分の折には
上々堂へ!

そして1973年の明日、今和次郎が亡くなっています。
「古本屋の掃苔帖」はこちらから
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by shanshando | 2005-10-26 22:54
2005年 10月 26日

古本屋の掃苔帖 第八十九回 今和次郎

1.人通りの少ない裏小路。垣、電信柱など、前面に何物か
 あることを要す。多くその物件は人の丈より高し。ときに
 は高からざる物もあり。
2.夜間は前面に物件を必要とするも主要道路を省みざるものの
 ごとし。
3.裏小路の長い場合、その中央部はあまり使用されず。これは
 確実ならず。
4.排水溝を利用することあり。
5.天然の崖を利用することあり。これは崖の上にても下にても
 同様なり。
何だかわかりますか?
川添登著 ちくま学芸文庫「今和次郎」から抜き書きした路上
放尿の調査の一部です。路上放尿、立ち小便ですね。最近昔ほど
見なくなりました。街ではコンビニなどでトイレを貸してくれる
ようになったお陰でしょうか。
見なくなったからといって、これで又日本の貴重な風習が無くな
って行く…。と悲しむほどのものじゃないし、あれやっぱり犯罪
だから無くなっていいんだろうけど。ちょっと淋しい気もします。
正直、酔っぱらって薄暗い路地の塀に寄りかかるようにして立ち
小便しながら見上げた夜空は何ともいえなかった。

今和次郎はへんな学者である。柳田国男のもとで民俗学をやって
いたのが、考現学を始めちゃったため破門になったという。
歴史上最初の考現学の調査は大正14年の銀座街頭での風俗調査と
いう事になっているが、実はそれに先立つこと二年前に震災のため
家を無くした人たちの建てたバラック建築を調査している。
そして調査するだけでなく、それを美化するべくバラック装飾社
というのを立ち上げている。
好奇心が行動を呼び、行動が次なる好奇心を呼ぶ。じつに楽しそう
である。今和次郎のスケッチは見飽きがしない。
展覧会をひらくと面白そうだ。

考現学の人、今和次郎は1973年の明日10月27日心臓麻痺で亡くな
っている。享年85歳。お墓は小平霊園にあるらしいから、今度の休み
はお墓参りがてら、お墓の調査の真似事でもやってみるかな。
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by shanshando | 2005-10-26 21:45 | ■古本屋の掃苔帖
2005年 10月 25日

古本屋の掃苔帖 第八十八回 伴淳三郎

喜劇役者には日常陰湿な人が多いと聞くが、伴淳ほど
その陰険さを言われる人も少ないだろう。
小林信彦の「おかしな男渥美清」に出てくる伴淳の後輩
いびりに関する記述は、この役者の残された映像作品を
見る時にイメージの上で差し障りがあるほどにリアルに
陰湿である。ひょっとすると、小林信彦自身が伴淳に何か
恨みがあるんじゃないかと思うほどに。

もしかすると、誰か他の著者による本を読めば小林の本と
は正反対の伴淳像が現れるのではないかと思い、田山力哉
「伴淳三郎 道化の涙」を読んだ。
結果を言うとこの本では著者はなるだけ好意的に書こうと
しているにも関わらず、やはり伴淳は相当嫌な奴である。
本人が嫌な奴であるだけでなく、彼の居る周囲の雰囲気ま
で陰湿で寒々しているという感じだ。

自分より強いやつには媚びへつらい、弱いやつにはじくじ
くと虐めをやる。まさに典型的な日本人という感じである。
内田吐夢はそんな彼を「飢餓海峡」の撮影で虐めるだけ虐
めて、アジャパー氏では見えなかった彼の本然の暗さを引
き出す事に成功している。
しかし、喜劇役者の暗さを引き出すことは、映画にとっては
プラスかもしれないが、役者本人にとってはどんなものだろう?

日本の喜劇役者は歳を取るとみんな森繁になりたがる。
森繁という人は持っている質が根っから明るいから、どんな
シリアスな芝居をやっても観てるほうは救われる。しかし対象
するように伴淳は根っから暗い役者なのだ。

前出の田山力哉の本で伴淳の生涯を見る時、私たちは同時に
昭和の興行界の闇を見ることになる、単純にヤクザが絡むから、
暴力や理不尽がまかり通るから闇だと言うのではない。
ヤクザや暴力はそれ自体別に暗くはないが、伴淳のようにそれにおも
ねる人間が関わった時一気に暗くなるのだ。
そうして、私は彼の生涯があまりにジメジメ暗いものだから、かえ
って未見の彼の喜劇映画を観たくなった。喜劇役者は屈折した素顔
を持っている方が大抵面白いから。今のテレビ芸人のように地ばかり
見せているようなのは全然興味をもてない。

己の屈折した性格のゆえに、芸能人としての成功とは裏腹に私生活
では生涯不遇で孤独だった伴淳三郎は昭和56年の明日10月26日
に死亡した。開腹してみると酒を飲まない彼の肝臓が疲労と心労の
ためひどい状態になっていた。最後を看取ったのは嘗て世話になり
ながら手酷い別れ方をした恋人清川虹子だった。享年73歳
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by shanshando | 2005-10-25 21:39 | ■古本屋の掃苔帖
2005年 10月 23日

古本屋の掃苔帖 第八十七回 ピストン堀口

昭和8年6月、一人の早大生のボクサーがフランス人選手を相手
に圧倒的勝利をおさめた。
中学時代から柔道部に所属し、締め技で落とされないために
50キロの土嚢に細い麻ひもをつけ、それを喉にかけて80畳敷き
の道場を何周もまわって鍛えたという、喉、首の強さに加えて、
ボクサーになってから片時も休まず鍛えた足腰の強さ、スタミナ
は常人離れしており、相手にどんなに打たれても萎える事が
なかった。
器用なタイプではなく戦法は常にひとつ、相手の内懐に飛び込み
機械のように休まず打ち込む左右の連打。それが延々何ラウンド
も続くのだ。
この戦法のためついたあだ名がピストン堀口、後の東洋フェザー
級チャンピオンである。

昭和8年といえば、ドイツでヒットラーが首相になり、日本でも満蒙
開拓団の入植訓練が始まるなど、第二次大戦にむけてナショナリ
ズムの勃興が著しくなった年である。
国民が彼の快勝に沸いたのは、今のサッカーの比ではなかっただ
ろう。
ピストンは一躍国民的ヒーローとなった。
この時代、選手の健康管理がよほど杜撰だったせいか、それとも
ピストンが丈夫すぎたのか、最盛期の彼は信じられないほどの試
合数をこなしている。
なにせ、平均して月一回の試合、酷いときは週に三回10回戦を
戦ったという。プロレスじゃあるまいし、とてもボクサーのこなせる
試合数ではない。
それだけピストンの試合は人が入ったのだ。
彼を使って稼いだ興行師の一人に、後の三代目山口組組長田岡
一雄がいる。

生涯通算成績176戦 138勝(82KO) 14引き分け。
デビュー以来47連勝は、山本茂「ピストン堀口の風景」によると、
すくなくとも昭和63年まで破られていないようだ。

戦後も30歳を超えながら、現役ボクサーとして戦ったピストンは、昭和
25年10月24日午前0時7分東海道線くだり列車に撥ねられて死亡
している。
終列車で東京から茅ヶ崎に帰宅して来た所、乗り過ごしてしまい。線路
を平塚から歩いて帰る途中だった。当時のマスコミは列車を避け切れ
なかったのは、彼がパンチドランカーになっていたせいだと報じたが、
前出の本で山本茂はそれを否定している。
享年36歳
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by shanshando | 2005-10-23 16:33 | ■古本屋の掃苔帖