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2006年 02月 28日

古本屋の掃苔帖 第百九十二回 岡本綺堂

明治5年10月15日、東京に生まれている。
ご承知の通り、明治5年は12月2日で終わって次の日から陽暦
に切り替え、明治6年1月1日になってしまう。これは財政難の
明治政府が役人の給与を一ヶ月分節約するために行ったと云わ
れているが、とりあえずそれはおく。とにかく、数え年が一般
的だった当時、綺堂は生まれて二ヶ月足らずで2歳になった事
になる。だからと云うわけでもあるまいが、非常に早熟な少年
であったようだ。満年齢の9歳で英語を学び、18歳で東京日々
新聞に入社、狂綺堂の号で劇評を書いている。
昨今も高校生から芥川賞候補になったりするが、創作と評では
やはり客観性を強く求められるぶんだけ評の方が若年者には希
有であると云って良いだろう。狂綺堂がやがて略され綺堂の号
になる。
幼くして英文学に親しみ、また同時に歌舞伎芝居にも親しんだ
事により綺堂は明治大正を代表する劇作家の一人となるが、そ
れには多分に父親の意向があったように思われる。維新期佐幕
派だった彼の家系では、如何に英語が出来、学業優秀であって
も官途ついて出世することは難しかったのだろう。

「半七捕物帖」やその番外編として書かれた「三浦老人昔話」
は、江戸末期の風俗とそこから変遷した明治初年の空気が同時
に味わえて面白い。

秀才ながらどうやら虚弱体質であったらしい彼は、生涯度々「
脳貧血」や「不眠」に悩まされたらしいが、66歳まで生きて、
昭和14年の明日、3月1日前年からの心臓衰弱が悪化して死去
した。
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by shanshando | 2006-02-28 21:05 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 02月 26日

昨夜、王子の劇場に

ご来場いただいたお客様、ありがとうございます。
♪お陰でぇ〜、日当になりましたぁ〜♪
こんなギャグ岡崎さんくらいしか判らんだろうな。
いやはや、いかがわしさ満点の舞台お楽しみいただ
けましたでしょうか?
私は筋肉痛バリバリです。若い頃の地方巡業では、一
日4ステージ一ヶ月とかやったものですが、今はもう
わずか1ステージでこの有様。情けない限りです。

さてネット販売はこちらからどうぞ

掃苔帖ジョン・ディクスン・カーです。
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by shanshando | 2006-02-26 15:22
2006年 02月 26日

古本屋の掃苔帖 第百九十一回 ジョン・ディクスン・カー

優れた娯楽小説家であることと、過度の飲酒癖には何か因果関係
があるだろうか?
先年亡くなった山田風太郎は、一日にウィスキーをボトル三分の
一空けていたと云うし、中島らもにいたっては、体液の80%位
はアルコール分で出来ているんじゃないかと思うほどの立派なア
ル中であった。
本格推理小説の名手として、乱歩はじめ日本の多くの作家にも影
響を与えたジョン・ディクスン・カーも、相当な飲酒癖の持ち主
だったらしい。しかも、図らずも先ほど「立派なアル中」と書いた
が、彼は自分の飲酒癖を悪癖と考えるどころか、男らしい立派な
事だと考えていたらしく、いくつかの飲酒礼讃の文を書いていると
いう。
おそらくは連続飲酒に陥った為だろうが泥酔状態が日常化して、さ
すがに仕事に差し支えると思ったのか、沈静作用をもとめて抱水ク
ロラールを用いていた時期もあり、その為今度は抱水クロラールの
中毒になった。このへんの悪循環はなんだかやはり中島らもを思わ
せる。山田風太郎のボトル三分の一はまだ穏当なほうかもしれない。

作家ではないが、俳優の中村伸郎がやはり相当な飲み助だったらし
く、毎日晩酌をして眠るために二階の寝室に上がろうとして、階段
があたりまえに真っ直ぐ見えていると、「いかんいかん」とばかりに
引き返してもう一度、階段がぐんにゃり歪んで見えるまで呑み足した
という事を聞いた事がある。身を挺して人を楽しませようとする人は
心に過剰に柔らかい部分が必要で、その柔らかさを維持する為には、
常にアルコールで保湿しておく必要があるのかもしれない。

アメリカで生まれたアメリカ人の彼は、しかしその生涯の殆どをイギ
リスで過ごしている。第二次世界大戦の最中、在英アメリカ人に帰国
勧告が出された時ですら帰ろうとはしなかった。それはそうだろう、
アメリカは嘗て禁酒法などという野蛮な法律を作った国である。そんな
物騒な国に帰るくらいなら、ドイツ軍の爆撃のほうがまだマシだったの
だろう。

飲酒癖がかならずしも命を縮めるものでない証拠には、山田風太郎も
78まで生きたし、中島らもは早死にだが、古今亭志ん生は83まで生き
ている。そうしてジョン・ディクスン・カーも70まで生きて、1977年
の明日、2月27日癌で死んでいる。
今年は彼の生誕百年にあたる、ミステリーファンはこぞって一杯やって
祝うべし。
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by shanshando | 2006-02-26 14:57 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 02月 24日

明日は、掃苔帖はおやすみ。

明日、2月25日土曜日私は王子の駅前にある
「pit 北/区域」という劇場で行われる「踏み外し」という
企画で自分が構成した作品を上演してきます。
上演作品は一応二つという事になっていますが、切れ目なく上演しま
すので、一つの作品に観えます。一つは田辺知美さんという女性の
踊り手が出演する作品で、もうひとつは私のカンパニー武蔵野魚協
による「男色」をテーマにした作品です。
詳しくは下記をクリックして、ごらんください。
東京バビロン
入り口で、上々堂のブログを観たと言っていただければ、
前売り料金になります

電話/FAX0332975482 09061350599

東京都北区王子1-13-18 不二泉ビルB1,2
開場19時 開演19時半
前売2800円 当日3000円
アクセス JR京浜東北線王子駅北口徒歩2分
東京メトロ南北線王子駅5番出口徒歩0.5分
都電荒川線王子駅前徒歩5分 北とぴあの向かい

さて、本日の掃苔帖は城達也です。
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by shanshando | 2006-02-24 16:09
2006年 02月 24日

古本屋の掃苔帖 第百九十回 城達也

「遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休める時、
遥か雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙
の営みを告げています。
満天の星をいただき、果てしない光の海を豊かに流れ行く風
に心を開けば、きらめく星座の物語も聞こえてくる夜の静寂(
しじま)のなんと饒舌な事でしょう。
光と影の境に消えて行った遥かな地平線も、瞼に浮かんでま
いります。
……」

私は「何とかと、煙は…」の譬えにたがわず高いところが好きで
ある。
若い頃は、深夜酩酊すると街中の高層マンションの鉄骨階段を
駆け上がって屋上にある貯水槽の上に座り込み、東の空が白々
明けてくるのを待っているのが好きだった。
日々抱えていた焦燥や不安がその瞬間は、清浄な朝の大気に
洗われたように無くなり、自らの存在もその空気に溶け込ませて
雲散霧消してくれぬものかと思ったりした。

はじめて外国に行くために飛行機に乗ったのは確か28歳くらい
の頃で、やはりその時も窓外に広がった太平洋上の夜明けの景
色に似たような感慨を得た。以来、今も飛行機に乗るたびに、恥
も外聞もなく窓際の席をキープして、起きている限りは窓に鼻を
くっつけている。飛行機に搭乗するのが仕事の人ならいざ知らず、
一般の人間はどんなに旅好きでも、一生の内に体験できる飛行
時間は知れている。二十歳から毎年50時間のフライトを50年間
したとして、ようやく2500時間。三分の一年にも満たない。

城達也の「ジェットストリーム」は素敵な番組だった。冒頭に掲げた
名台詞を毎晩聞かずには眠れない人が随分いたはずだ。1967年
から94年までの27年間ウィークデイの夜空に送信し続けた。
一口に27年というが、四半世紀の余である。はじめた年に生まれた
子供は27歳になる(あたりまえだが)。その長い年月を古びた感じ
を持たせず続けられたのは、一重に彼の訓練された正統派の喋り
のお陰だろう。この番組の城達也に憧れた愚弟は、生前彼が所属
した同じ事務所に所属しナレーターになった。声の音域が近いため
冒頭の台詞を真似させるとうまいもんである。いつか、弟が今の伊武
雅刀氏にかわりこの番組を担当する日が来ないかと楽しみにしている。

1967年7月に「ジェットストリーム」を始めた時36歳だった城達也は
63歳になった1994年12月の最後の放送に「さようなら」というメッセ
ージを残し、翌1995年2月25日喉頭癌のため亡くなった。
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by shanshando | 2006-02-24 15:41 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 02月 23日

古本屋の掃苔帖 第百八十九回 神代 辰巳

青森県にかつて浪岡町という町があり、町おこしの一貫と
して「中世の里なみおか映画祭」という企画を1992年から
続けていた。映画館のない町で自治体が支援して、コマーシ
ャリズムにはのりにくい名画を上映しようという誠に結構な
企画で、こういう事にこそ税金が使われて然るべきなのだが。
14年目にあたる昨年、浪岡町が合併して青森市になったのを
うけてこの企画は終了させられることになった。
それは、まぁしょうがあるまい。地方自治体の運営は色々難
しいのだろう。
問題は、その最終回に企画者が神代辰巳の作品を上映しようと
したところ、いわゆる成人映画にあたる神代作品を上映するな
ら助成金を出さないし、会場も貸さないと市側が云いだし、結
局神代作品の上映は断念されたというのだ!
成人映画の上映は市民の同意が得られないというのだ!
開いた口が塞がらないというのはこの事だ。未だにこんな事を
云いだす自治体あるとは。
彼等ははたして例えば「赫い髪の女」を見ただろうか?「一条
さゆり・濡れた欲情」を「櫛の火」を?
私は大学生だった頃、京都にあった「京一会館」という映画館
でこれらの作品を観て、限られた予算(ロマンポルノは一律
750万円)でこれだけのものを創りだす人々に憧れて、後年
思いあまってロマンポルノは駄目だったが、ピンク映画の現場
を踏んだ事もある。
神代辰巳には縁もゆかりもない身ながら、また、青森市に納税
した事もないけれど、黙っちゃいられないのである。小津や
溝口ばかりが日本映画じゃない。現に外国の映画祭などでは
神代の作品は好評を博していると聞く。
性描写が中心になるのは、日活ロマンポルノの宿命である。一
定の時間に決められた数のSEXシーンが入る。だがそれの何が
いけないのだ。それだから上映するのに市民の同意が得られない
というのなら、青森市は図書館から多くの文学作品を廃棄しな
くてはいけなくなる!

と、まぁ怒ってみたけれど、じつは元々役人なんぞには何の期待
も元々ないのだ。奴らに文化がわかるようになることは永遠にな
いし、それでいいのだ。文化庁お墨付きのポルノなんて観たくも
ない。
しかし、新宿の第二国立の前通るたびに思うけど、あれってちょ
っと鹿鳴館だね。オペラなんかに莫大な金使う前にもっとやるべき
文化事業が有ると思うんだけど、まぁあれも暴き立てるといろんな
腐敗の巣窟なんでしょう。

神代辰巳は1995年の明日、2月24日に67歳で他界した。死因はど
う調べても判らなかった。判り次第付け加えます。

急性肺炎のため東京都世田谷区の有隣病院で亡くなられました。
肺結核を患っていたと聞いたこともあります。だそうです。ありがとうご
ざいました。
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by shanshando | 2006-02-23 16:59 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 02月 22日

古本屋の掃苔帖 第百八十八回 山下奉文

ヤマシタトモユキと読む、私はずっとヤマシタヤスブミだと
思っていた。
太平洋戦争前期、連合軍の要衝シンガポールを陥落して「マ
レーの虎」と恐れられた日本の軍人である。階級は大将。
「大将」なんていうと我々は焼き鳥屋の親父か魚屋の主人を
連想するが、昔は他家に子供が生まれて男の子だと聞くと
「じゃ末は陸軍大将ですな」などと世辞を言ったものだそう
である。ちなみにこの階級の呼称は陸軍に限ったもので、海
軍では元帥がそれにあたる。

落語家の川柳川柳師によると、シンガポール陥落の頃は、軍歌
もみんな威勢が良くって、子供までが「ルーズベルトのベルト
が切れてェ〜、チャーチル散る散る花が散る花が散るゥ〜」な
んて」歌っていたそうである。それが、段々戦況が悪くなって
くると、暗ぁーくなってくる。
戦後になってみると大方の人間、庶民大衆は只々悲惨な戦争に巻
き込まれたなんて事を言うが、実際には勝ってるうちは結構みん
な戦争をあおっていたのである。誰もよその国を攻めたりしちゃ
いけないよ、なんて言わなかったのである。

山下奉文はシンガポールを陥落して名将といわれたが、東条英機
に嫌われていた為、左遷されて満州にとばされた。東条という人
間はどだい将領に適さない人物で、自分と反りが合わなくても適
材とみればそれなりの任務と位置をあたえる器量がない、平時な
ら兎も角、国家が戦争という非常時にある時これは犯罪に近い事
である。
満州でしばらく重要な任務から遠ざけられた山下が、再びこの方
面に戻された時、戦況はすっかり悪化していた。早い話が敗戦処
理にまわされたのだ。
1944年、第14方面司令長官として、フィリピン戦線の指揮をと
った山下はダグラス・マッカーサー相手に勇戦するが、台湾沖航
空戦の誤報に基づいたレイテ決戦を強いられ、兵力を失い、続く
ルソン島戦では完敗、遂に1945年9月、パギオにおいて降伏。
マニラにおいて行われた軍事裁判で、所謂「マニラ大虐殺」の
責を問われ、1946年の明日、2月23日絞首刑に処される。
享年61歳。
マニラ虐殺はじつは海軍陸戦隊のやったことで、山下はむしろ
マニラの非戦闘員に類が及ぶのを避けようとしたと云われるが、
山下は「自分が命じたことではないが、だからといって自分に責任
が無いとは思わない。」として刑を受け入れた。
その高潔な人格は米軍側にも同情者を生んだが、結局刑は軍人と
して銃殺刑より屈辱的な絞首刑で、裁定はまさにマッカーサーの
命を受けた報復であった。
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by shanshando | 2006-02-22 22:39 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 02月 21日

古本屋の掃苔帖 第百八十七回 柳原白蓮

柳原白蓮は、明治18年華族である柳原家に妾腹の娘として生まれ
9歳でやはり華族の北小路家に養子にだされ、15歳になった時同家
の子息資武と婚姻し一子をなしているが、夫資武は一種の精神障害
の持ち主であったようで、すぐに離別生家に帰るが、生家では出戻り
を羞じ彼女を幽閉状態にする。26歳の時、兄義光が貴族院議員に
立候補のため金が必要になり、彼女自身も幽閉を解かれるならと、承
知して九州の炭鉱成金伊藤伝右衛門と再婚、伝右衛門はこの華族の
お姫様のために「あかがね御殿」なる豪邸を建て迎えるが、歌人である
彼女は、生来野卑無教養な彼に嫌悪感があった上、妻妾同居などを強
いられた事もあって、やがて帝大学生で社会主義者の宮崎竜介と密通
(その前にも二人ばかりと出来ていたようである)逐電、朝日新聞に逆
三行半(当時は女性から絶縁状を送る事は通常なかった)を掲載、この
ため妹を売った金で貴族院議員になっていた兄義光は辞職、頭にきて
また彼女を幽閉するが、やがて大正12年の震災のどさくさに逃げ出し、
晴れて竜介と一緒になる。

さて、以上が柳原白蓮の前半生のエピソードである。戦後原節子が白蓮
を演じて映画にもなり、今も女性の権利を勝ち得るため戦ったヒロインとし
て、フェミニストの皆さんに人気の高い彼女であるが。はたして事実はどう
だったろう?朝日新聞に載せた絶縁状は「女性の人権を踏みにじる貴方と
は暮らせない」という内容になっているが、伝右衛門との結婚中、彼と同衾
するのが嫌さに京都から自分付きの女中として呼び寄せた女性を代わりに
伝右衛門に抱かせたりしている。(女性の人権云々とはどの口が云うんじゃ
てなものである。) また戦後昭和天皇の皇后良子の命をうけて現皇后(彼
女は平民の粉屋の娘なのだ)と明仁親王との結婚を阻もうとしたりしている。
どうやら、彼女をフェミニズムの先駆者に祀り上げたのは夫竜介とその仲間
であって、彼女は詩歌文学の才能以外は取るべき物もない、無思慮で階級
意識の強いわがままな女でしかなかったようだ。

彷書月刊2003年2月号「特集 柳原白蓮」には劇作家斉藤憐氏の文章が
寄せられており、白蓮のことに留まらず近代史に関する氏の卓見が伺え、
興味深い。とくに当時の法令によれば、姦通罪が成立し白蓮を牢屋に叩き
込むことも可能だったはずなのに何故伝右衛門がそれをしなかったか?
白蓮の側は何故強気の「逆三行半」を新聞に載せることが出来たか(投獄
の危険を冒して)などの疑問が綺麗に解かれる。
また、この話では一貫して悪役を演じさせられる、伊藤伝右衛門が実は篤志
家として、地元では尊敬の対象になっている事実も、同号の元飯塚市歴史
資料館館長 深町純亮氏の文章に書かれている。

柳原白蓮は昭和42年の明日、2月22日81歳で没している。
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by shanshando | 2006-02-21 15:11 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 02月 19日

古本屋の掃苔帖 第百八十六回 武満徹

「作曲するということは、ぼくをとりまく『音の河』にどんな
意味を与えるかということだろうと確信した。」(「音,沈黙と
測りあえるほどに」より)
武満のいう「音の河」とは、楽器で演奏される音色だけではなく
街の雑踏、人々の話声、風の音など自然界にあるすべての音の集
合体を意味している。

この、極貧のため正規の音楽教育をうけることができず、手が小
さいためピアノの演奏にも難があり、しかも本人の弁によれば吃
音障害をもった、音楽家としてネガティブな要素を多く持った人
間が、世界に名をとどろかす作曲家となりえたのは、じつは却っ
てそのネガティブな条件のせいだったかもしれない。
様式や方法論がすでに確立されている世界で、それを突き崩すのは
常にその既存の世界から落ちこぼれ疎外されたものである。
有名な逸話だが、若い頃金がなくてピアノを持てなかった彼は街を
歩き、ピアノの音が聴こえる家を見つけると飛び込んで頼み込み、
弾かせてもらったという、つまり彼は街を歩く時に視覚よりも聴覚
により意識を傾けていた事になる。必然街路の騒音や自然音も平行
に受け取る事になる。どこか食物を求め這う蟻に似ている。

彼の作品は後期になるにつけて甘みを増しており、それが却って
評価の高い若い頃の作品よりも、彼の人間性を多く語っているよう
に思えるのは、彼の基調がこの音の匂いを探し歩く蟻であることに
彼自身が拘泥し続けたからではないだろうか。常に世界は彼を囲ん
で巨大でなければならない。そう意識する事によってはじめて安ら
ぎを感じる彼がいた、のではないか。
デビュー曲「2つのレント」を評論家山根銀二に音楽以前と酷評さ
れ、映画館の暗闇でひとり泣いたというが、じつはその涙は山根ご
とき浮薄な権威主義者のために流されたものではなく、蟻である自
分を覆いつくしている世界が永遠に届かないほど大きいと感じられ
た事にたいする感激の涙ではなかったか?

偉大なる音の蟻武満徹は1996年の明日、2月20日膀胱癌のため死
んだ。死に先だって彼は「死んだ男の残したものは」という自分自
身にたいする鎮魂歌ともとれる曲を発表している。
享年65歳。
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by shanshando | 2006-02-19 15:40 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 02月 18日

古本屋の掃苔帖 第百八十五回 尾崎士郎

昭和22年に出版された尾崎士郎の「謫居随筆」を読む。
謫居とは、罪を受け配流され暮す事で、戦時、林房雄などと共に
「新日本文化の会」を結成、従軍取材などして戦争協力をしたと
して、戦後公職追放された彼が自ら流人の心境で伊豆に隠棲した
時の心境を書いたものである。

時代柄、漢語旧字の多い文章で、昨夜彼の同窓80年の後輩にあた
る家人に読みきかせて貰ったところ、(最近眼精疲労のせいか或は
老眼か、兎に角戦後の印刷状態の悪い細かい文字が私には判読しに
くくなっている)数行毎につっかえる、これは何も都の西北の学力
が80年のうちに急低下したということではなく、単に習慣の変遷だ
ろうけど、旧字はともかく漢語はあきらかに著者が気取り過ぎている
ように思う。たしか「人生劇場」ではこんな文体じゃなかったはずだ。
以前、私は漢文の素養がある人の文章は簡潔で好きだと書いたが、こ
の場合、元来、男性的な自愛自負のつよい著者が自らの精神的落魄を
韜晦するために用いているように見える。
平たく云えば、インテリ爺ぃの繰り言である。といってもこの時彼は
40代の筈であるが。

この中で彼は、多くの若者の命を無為に失ったことを惜しみながらも
戦争に巻き込まれた以上敗北を期待した男が一人でもいただろうかと
云い、自らの言論人としての責を逃れようとし、むしろ戦後荒れた世
相を傍観者として80爺ぃのように嘆いているが、これはみっともない
限りだ。

三島由紀夫はこの作家を「男性的な作家」と評価していて、実際にそん
な資質から多くの後輩から慕われもしたようだが、私はこんなみっとも
ない無責任が男性的ならおかまの方がズッと偉いと思うのだ。
「男性的」が看板なら、敗戦と同時に腹を切ればいいのに、連綿と戦後
を生き1964年の明日、2月19日尾崎士郎は死ぬ。享年65歳。
今また、再軍備にむけて威勢のいい言論人が多いようだが、いざ道を誤
ったと気付いた時、彼等は責任をとるだろうか?
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by shanshando | 2006-02-18 22:47 | ■古本屋の掃苔帖