上々堂(shanshando)三鷹

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2006年 10月 31日

古本屋の掃苔帖 第三百三十二回 加藤まさを

日曜日、綱島温泉に骨休めに行って来た。
正確に言うと綱島温泉東京園。
横浜市やのになんで東京園やねん!などと突っ込んでは、
恐れ多い。
私は個人的に関東近県における日帰り入浴施設の王様に
選ばせていただいている。なんせゆるーい所なのだ。
入場料800円払って入ると、一日中大座敷で昼寝するも良し
縁側でビールを飲みながら読書するもよし、お風呂入って、
ちょっと一服して、一時間以内に出てきたら、なんと410円
返してくれる。
でも、せっかく横浜まで行って、セカセカすることもない。
ここにはステージ付きの大座敷が三つと、貸切可能な小座敷
がいくつかある。ステージではカラオケやその歌にあわせての
踊り(素人さんだろうと思うけど、衣装や化粧までしてる)を演じ
てたりして、ちょっと在りし日の天王寺公園脇のカラオケ屋台
を偲ばせる。
カラオケ嫌いじゃないけど、昼間っからはあれなので、とりあえず
やってない部屋に入って、入り口で買った蒸しパンなんて食べて
みる。中の売店には焼き魚やトマト ビールなんかも売っているし
親子丼280円なんて信じられないメニューもあったりする。
蒸しパン食べ終えお風呂場に向かうと鉱泉独特の珈琲色のお湯
非常にあたたまって結構毛だらけ。
あがって、お座敷に戻って小一時間昼寝。目を覚ますとこの部屋
でも中年カップルがいつのまにかカラオケを始めていた。
美空ひばり、小林幸子、都はるみ、身体を起こさず天井を見たまま
聞いていると中々おじょーず。デュエットの息もぴったり。
半睡半醒で聞きながら、二十数年前の冬の夜を思い出していた。

そのころ高円寺に住んでいた私の部屋に、ある夜一人のオカマが
訪ねて来た。いやオカマだという証拠はなにもない、私より三つば
かり歳上の彼は、非常にガッチリした身体と容貌をしながら一人称
がつねに「あたし」だっただけで……
彼は私が不要になった炬燵を貰いに来たのだが、11時過ぎての突
然の訪問には驚いた。
なにしろ時間も時間だし、彼の家が遠いのは判っているから、炬燵
だけ押し付けて無碍に帰すわけにもいかず、私は貞操の危機を感
じながら、彼に泊まっていくよう薦めた。
内気な東北人の彼は、「イヤァ突然来て悪いからぁ…」とかなんとか
呟いていたが、「兎に角一杯」という私の誘いに応じて腰を落ち着け
た。じつはその夜、中野あたりで飲んでいた彼は、懐ぐあいが淋し
くなったところで、以前から暖房器具を持っていないという彼に、炬
燵あげるよと言っていた私を思い出したらしいのだ。

ひいてあった蒲団を部屋の隅に寄せて、焼酎のほうじ茶割りを飲み
ながら、私たちはその数年前に亡くなった彼のダンスの師匠の話を
始めた。私は高名なその師匠に直接面識が無く、一方的に話の聞
き役となった。
「いい男だったのよ、みんな集めてお酒を飲む時は何時も唱歌を合
唱するの」
「へぇー、どんな歌うたうの?」
他で聞くその伝説のダンサーの風評からは、酔って唄う唱歌は想像
しにくかったのだ。
「例えばねぇー…」
彼は、題名を言わず歌を唄い始めた。顔に似合わぬ裏声のソプラノ
で。
「おじいさんの古時計」「朧月夜」「里の秋」私は結構聞き惚れてしま
い、一曲終わる度に拍手した。本当に感動したのだ。
やがて、歌が四曲目になった時、彼は壊れてしまった。「月の砂漠」
が止まらなくなったのだ。眼もすでに点になっている。
私は片隅に寄せた蒲団を部屋の端にのべなおし、押入れから彼の
ためのもう一組をだして、壊れた蓄音機に「先に寝るから、気が済ん
だら、適当に寝な」と言って部屋の明かりを二股電球の小さいほうに
切り換えて横たわった。
部屋一杯に広がった蒲団の波は砂漠になり、小さな電球が月になり
彼の歌は益々止まらなくなった。
次の日私が目を覚ますと、早朝から始まる大道具の仕事に出掛けた
彼はすでにおらず、昨夜持ち帰りやすいように梱包してやった炬燵は
忘れられて台所にあった。

昔々の記憶というのは、何故だか綺麗だねぇ。それにしてもオカマに
月はよく似合う。

大正12年「少女倶楽部」三月号に「月の砂漠」を発表した叙情画家で
詩人の加藤まさをは、千葉県御宿の浜辺をモデルしたという。
御宿の浜辺だから夜の旅をしても、お姫様と王子様は無事なわけで、
ゴビ砂漠だったら死んじゃってるだろう。
加藤まさをは1977年の明日11月1日80歳の生涯を閉じている。
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by shanshando | 2006-10-31 17:11 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 10月 28日

古本屋の掃苔帖 第三百三十一回 フランシス・ホジソン・バーネット

インターネットの登場が読書の質を変えたのは事実だと思う。
昔なら、本の中に出てくる知らない言葉は辞書にあたり、知らない
論調や記述は必要を感じれば、関連図書をあたった。
語彙は時代と共に変容するものだし、手元にある辞書が説明する
内容と本の中での用いられ方が同じとは限らない。
関連図書は探し始めると、時間と金がいくらあっても足りない。
今なら、知らないことはインターネットである程度まで調べることが
出来る。
ネットの情報には、偏りや誤謬があるので、正確さには欠けるが、
自分で情報を整理し選択する能力を養うので、意味の変容が激し
い時代の読書にはやはり欠かせない道具だと思う。

さて以上の記述は、本の内容を正確に読み取ることが肝要だという
前提のもとに書いた。本を読むなら、ちゃんと書いている内容が理解
できて、それに対して妥当な感想あるいは、批判ができるべきだという
前提である。
でも、それって少なくとも「幸せな読書」じゃないよね。本当は。
文章を主体としている書物は意味の伝達を第一義としている。普通は。
しかしそれはあくまで、書き手側の事情であって、読み手はなにも律儀
にそんな事に付き合う必要はない。
それは確かに、世の中にはどうしても意味が正確に伝わらないと困る
書物もある。例えば爆弾の取り扱い説明書とか、財産差押え通告書と
かその他さまざま。
しかし、閑な時に家で寝転がって読む本にそんなに律儀になることは
ない。いい加減に読めというのではない。語彙や論調の細部に拘らず
鷹揚に読み飛ばす。言葉や文体の持つ意味を優先させるのではなく、
音や形として紙面の印象を受け取っていく。そういう「幸せな読書」の時
間を誰もが子供の時には体験出来たはずである。

よく店の児童書のコーナーで、「これは○○ちゃんにはまだ早いよ」とい
う、おとうさんおかあさん、おじいちゃんおばあちゃんの声を聞く。
早いよとか、ダメだよとか云われて子供は余計それに惹かれているのに。
大人でもそうだが、本との出合いで一番大切なのは、インスピレーション
である。新聞雑誌の提灯記事など鵜呑みにして、本を探すのは二流の
下策。もし子供に本との幸せな出会いを作ってやりたければ、大人が中
途はんぱな判断を差し挟まず、インスピレーションを信じてやることだ。
読めない字や、理解できないことがあっても、子供は想像力でそれを補
う。欲しがるからって、アニメのキャラクター絵本ばかり与えるのはどうか
と思うけど。あれは、本当に子供の想像力を台無しにするから。

私が初めて読んだバーネットの物語は「小公子」だったと思う。
外国の話なのに、漢字のタイトルが付いているのが、変な感じだった。
「裸の王様」や「あしながおじさん」なら意味は判るが、「小公子」ってなん
だろう?実は今もよく判らない。わからないまま読んだ小学低学年の私は、
とにかく、どうやら「小公子」というのは、おかあさんとかおとうさんのいない
可哀想な子供のことらしいと、思うようになった。同じバーネットの「小公女」
もそうだから、きっとそう思ったのだ。
一体どこのどいつがこんな辛気臭い邦題をつけたのか知らないが、今も
その頃も臆病で可哀想なヤツが大嫌いな私は、いつか自分もかわいそうな
「小公子」になるのではないかと怖かった。

イギリス生まれのフランシス・イライザ・ホジソンは16歳で父を亡くし、一
家で渡米、長じて女性誌むけの物語作家となり、24歳で結婚バーネット
夫人となる。1886年37歳で発表した「Little Lord Fauntleroy」が
大ヒット、児童読み物だったのだが、母親達に絶賛された。洋の東西を
問わず女性は、根が残酷だから可哀想な話が大好きなのだ。
明日10月29日は、1924年に亡くなったバーネット夫人の命日である。
享年74歳
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by shanshando | 2006-10-28 16:43 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 10月 27日

古本屋の掃苔帖 第三百三十回 前田光世

愛国心、国家への帰属感が希薄になったといわれるが、一般に
どんな枠組み・集団であれ、人々が帰属感を強くするのは具体
的にそこを離れた時であるようだ。例えば、ブラジル日系人の
勝ち組・負け組騒動に観るような、過激なばかりの国家への思慕
は、当時ですら国内に住んでいた人の何層倍でもあっただろう。
してみると、安倍国粋主義内閣の施政方針は、ここでも矛盾を
抱えていることになる。
もし愛国心を国民に刷り込もうというのであれば、「日本語も満足
に話せないのに英語教育など無意味」などと言ってないで、ドンド
ン英語を初め外国語教育をさせて、若者を海外に送り出すべきな
のだ。そうすりゃお好みの愛国者ができあがる。
…というのは実はちょっと嘘で、当然国家の思惑通りに愛国者に
なるヤツと、よその国の文化に触れて日本が益々嫌いになるヤツ
が出てくるだろうし、外国で働いて外国で生活すれば、日本では
納税しないわけだから、国家にとっておいしいことはなにもない。
多分そのへんを考えて、「早期の英語教育など不要」と言ってる
んだろうな。

日系移民の歴史は、明治元年にイギリスのブローカーに売り飛
ばされてハワイに行った153人から始まっている。以来、国策に
よる大陸移住が大幅に増えた時期はあるが、これは当時として
は、国内移住と変わらず。敗戦とともに無くなったわけだから。
結局、歴史的にも日系移民の最大の受け入れ先はブラジルとい
うことになる。

コンデ・コマこと前田光世が柔道指導の目的でアメリカに渡った
のは1908年、南方熊楠が帰国した8年後である。以来、いわゆ
る異種格闘技戦をやりながら欧米を転戦するのだが、やがて排
日気運の高まりを受けて、南米に移住、ブラジルで現在グレーシ
ー柔術と云われているものの基礎を作る。
そもそも初めの訪米の時、同行した富田常次郎が調子にのって
アメフトあがりの肥大漢に敗れたのを日本男児の恥として、雪辱
のための欧米転戦であったといわれるが、それにしてはあまりに
永い在外生活である。そもそも実際に敗れた富田が雪辱のため
というならわかるが、負けていない前田が行ったというのは解せな
い。富田では実力不足というならわかるが、富田常次郎といえば
西郷四郎などとならんで講道館四天王の一人、関係ないが「姿
三四郎」の作者富田常雄の父でもある。段位も上であったはずだ。
なのに何故前田が?
前田光世は実力から海外派遣までされたものの、講道館では冷や
飯を喰わされていたのではないか?初段への昇段審査の時も嘉納
治五郎の命で彼だけ十五人抜きを課せられている。
それは見方によっては、目をかけられていたとも見えるが、そんなに
目をかけられていれば、海外遠征をしたとしてもいずれ帰国してい
る筈である。なのに彼は、排日気運が高まった時ですら帰国してい
ない。帰国すれば海外で負け知らずの武道家として、相当の地位
も望めたはずなのに。

これは私の憶測だが、彼は日本人ではなかったのではないか?
ブラジルに定住後名乗ったコンデ・コマのコンデは伯爵を意味し、
コマには高麗の字をあてはめている。つまり高麗伯爵なのだ。
彼の死後、講道館は七段を追贈しているが、一説には生前は興行
試合に出たかどで破門状態であったともいう。
四天王とならぶ、イヤあるいはそれ以上の実力を持ちながら、サーカ
スの見せ物にまで出たコンデ・コマこと前田光世は1941年の明日
10月28日アマゾンで死んでいる。
享年61歳
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by shanshando | 2006-10-27 17:58 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 10月 26日

古本屋の掃苔帖 第三百二十九回 角川源義

かどかわ げんよしと読むのが本当らしい。

幻のベストセラー「日ペン美子ちゃん」ではないが、日本語の文章で
一番たくさんの印刷部数を記録しているのは、おそらく角川源義の
「角川文庫発刊に際して」ではないだろうか。
岩波茂雄の「読書子に寄す」のほうが歴史は古いが、なにしろ角川
文庫は発刊された作品数が一万を越すというし、角川映画とタイア
ップして売りまくっていた頃には、ミリオンセラーをいくつも出して
いる。

この文章を書いた年、つまり角川文庫を発刊した昭和24年は、角川
源義とその一族にとって象徴的な年であった。
岩波文庫が発刊から22年、文庫本という書物の形態は、安価と簡便
により広くこの国の読書人に受け入れられていたが、先行する岩波・
新潮の老舗の壁は厚く、新参の角川は苦戦が予想されていた。
 危急存亡の時にこそ、社会は若い力を必要とする。そんな時だから
既存勢力に立ち向かうこともまた可能だろう。「発刊に際して」には、
角川源義のそんな覇気を感じる。さしずめ出版界に躍り出た英雄児
のような気分だっただろう。英雄児の例にもれず彼は色を好んだ、早
い話しが下半身にダラシがなかった。

下半身にダラシがないといっても、30を越してオネショをするという
意味ではない。わかってると思うけど。
よその家の因果ばなしをして愉しむ趣味はないので、詳しくは岩上
安身という人のサイトを観て頂きたいが、なにしろ中々洒落になりにく
いオヤジである。立志伝中の人物では、歩く生殖器のような堤康次郎
が似たようなタイプだが、角川のほうがいくらかウエットな分より因果
度が強い。とばっちりをくった人達は、本当に気の毒だけれど、子孫で
ある春樹やその息子の事件まで因果を持ち出すのは違う気がする。
人間金が有り余れば、快楽に向かうのは必然で、要はその辺をスマー
トにこなすのが才能というやつなのだろう。
ジャンキーにはジャンキーのオカマにはオカマの才能とセンスが必要
なわけだ!と、未だ嘗て一度も金が有り余った経験のない古本屋は思
うのだ。

1975年の明日10月27日、ある時は俳人、ある時は出版社経営者、
またある時は大学教授、しかしてその実態はただのスケベオヤジ
角川源義が58歳の生涯を閉じた。
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by shanshando | 2006-10-26 22:22 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 10月 24日

古本屋の掃苔帖 第三百二十八回 稲垣足穂

又聞きの話である。
ある歳の夏ということであったと思うが、あるいは秋の思い違いか
もしれない。同行者がいて、澁澤龍彦と聞いたと記憶しているし、
恐らくそれに違いなかったと思うが、ひょっとしたら別の誰かだった
かもしれない。なにしろその頃すでに京都に棲んでいた稲垣足穂
に会いに行ったのである。
同行者に伴われて、坂道を登っていると向こうからステッキを突い
た足穂が歩いてくる。かねて知遇を得ている同行者がまず挨拶を
して、続いて彼も何か言わねばと思ったが、ガラにもなく言葉が出
てこない。普段、シュールな語彙を活用して人を煙にまくのを趣味
にしている彼が、言葉が出てこないというのは余程のことで、左程
に彼は足穂を尊敬し且つ又恐れてもいたのだ。実際には寸時であ
っただろうが数万秒にも感じた時間の末、彼の口をついて漸くでた
言葉は
「センセイ、お散歩ですか?」
言ってしまってから、「しまった!」と思ったがもう遅かった。
「馬鹿もん!わしが散歩などすると思うのかっ!」

若い頃に食客として、散々世話になった佐藤春夫を「文壇のラッパ
吹き」と罵倒して、その家を飛び出した稲垣足穂は老齢に至っても
その傲岸不遜を改めなかった。
「年とって急に悟っていい奴になるような、ぶざまな真似だけはした
くない。……『美しい日本の私』になって自殺した川端康成より、76
歳になっても『瘋癩老人日記』なんか書いて、スケベ心を失わない
まま大往生した谷崎潤一郎のほうがやっぱり偉い…」

大抵の歳をとって空威張りをする人間は、実は内容がない場合が多
いが悪いことにこの根性悪爺には、あり余る内容が満ち溢れていた。
内容がない空威張りは人の憐憫を誘うこともありえるが、むしろ人を
超越した内容をもった人間の空威張りは、孤高に繋がる。
事実、三島由紀夫によって日本文学大賞におされるまで、世間から
忘れ去られた存在だったのだが、その賞を受けた時ですら
「選考委員に感謝の念なんておきませんよ、アイツらもよくここまで
きたなぁという感じですな。」とのたまっている。

筆極道を自称する足穂も、晩年の2年は病床に臥し、もっぱら読むこと
で日常を送ったというが、読むものは自分の著書に限られたという。
稲垣足穂は、昭和52年の明日10月25日肺炎のために死んでいる。
享年76歳。

そうそう、冒頭の話で足穂に怒鳴られのは、土方巽である。
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by shanshando | 2006-10-24 17:14 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 10月 21日

古本屋の掃苔帖 第三百二十七回 春日八郎

暑からず、寒からずという日和で、興居島屋の番台に座っていると
眠気がさしてくる。昨日来た。南陀楼氏が「あれ、こっちもやってる
んだ?」と言っていたが、店主が昼間っから店に座っているという
ことが、古本屋として健全な状態であるかどうかは大いに疑問だけ
ど、一応私の店なので、私が座っていて不思議はない。

しかし眠い。
古本屋に長命な人が多いのは、店で居眠りするからじゃないかと
思うのだけど、これは従業員の皆さんには聞かせられない話。
眠い理由のひとつに音の問題がある。
最近、昼間は音楽を意識してかけていないのだ。
上々堂は、周りの音があまり入って来ない店だけど。興居島屋は
裏路地のせいか様々な音が入ってくる。
露天の移動八百屋「八百星」の売り声、通りを行く人の話し声、お隣
の酒房「高井」では、仕込みの間ラジオをかけていて、今日は懐メロ
番組。壁一枚隔てて聞こえてくる懐メロが、環境音とミックスされ、い
かにも町場の古本屋らしくて、下手な音楽より私は好きだ。心が和ん
で、それで眠くなっちゃうんだけど。

一通り開店儀式を済ませて、お弁当を食べて、珈琲を飲みながら今日
の掃苔帖の対象になるはずだった人の資料を読み始めるが、集中でき
ない。眠気のせいだ。本に頭を落としたままウトウト。うーんいかん。
珈琲をお替りして眠気ざまし、聞くともなしに耳の底に張り付いていたお
隣のラジオが「別れの一本杉」をやっている。
うーん春日の八ちゃんはいいねぇ。わざわざ自分ちでかけようとは思わ
ないけれど、床屋とか焼き鳥屋などで聞こえてくるとしみじみ浸っちゃう。
「コチ亀」の両さんもファンだっけ。
そうだ、やっぱり八ちゃんにしよう。明日が命日だし。

春日八郎の本格的な歌手活動は戦後、昭和22年からである。
27年に「赤いランプの終列車」が大ヒット。「お富さん」や「別れの一本杉」
などのヒットがある。特にヒットしたのは「お富さん」ではないか。
「粋な黒塀、見越しの松に、あだな姿の洗い髪。」とか、「死んだはずだぜ
お富さん、生きていたとはお釈迦さまでも知らぬ仏がお富さん」とか、
意味も判らないままに子供たちも歌っていた。
歌の上手い下手は私にはわからないが、藤山一郎に憧れて歌手になった
というだけあって、かーんと響きのいい声が、貧しかった時代の気分を楽天
的にしてくれていたのかもしれない。

テレビの歌謡番組をあまり観ることがなくなって、随分ご無沙汰と思ってい
たら、1991年の明日、10月22日肝硬変で亡くなっていた。
享年63歳。
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by shanshando | 2006-10-21 15:33 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 10月 20日

古本屋の掃苔帖 第三百二十六回 志賀直哉

敗戦、占領という未曾有の経験は当時の日本人を相当右往左往
させたようだ。歴史教科書で読むと平板にしか伝わってこない当時
の人々の動顚ぶりが古本から浮かび上がってくる。
昭和21年4月の雑誌「改造」には、志賀直哉の「日本語廃止論」が
載っている。
明治時代の文部大臣森有礼が日本語を廃して、新たに国語として
英語を採用しようとしたのは有名だが、それを受けて志賀は国語を
フランス語にしようというのだ。

かなり頓珍漢な意見であるのは言うまでもないが、ちょっと面白い。
アジア、アフリカ、大洋州、南米などの国々でスペイン語やフランス
語、英語などの言語が公用語として今も用いられているのは、植民
地政策のなごりであり、それぞれの言語がどの程度民衆に浸透して
いるかは、旧宗主国の政策の違いでまちまちである。

一般的に、フランスは現地人のすべてにフランス語を強要する政策
をとったので、仏領には今もフランス語が浸透しているが、イギリス
は敢えて一部の支配層だけに英語を教えるという政策をとったので
民衆への浸透度は浅い。
日本はその短い植民地経営の歴史の中で、フランス方式を選択した
のだが、なにしろ時間が短くやり方もあまりに短兵急だったので、さほ
ど深く浸透しなかった。

日本語は漢字ひらがなカタカナなど字数が膨大な上、同音異義語な
ど複雑で、習得が困難であるため世界語足りえない、学術文化の発展
のためには不適当である。戦争の悲惨な敗北もこんな言葉を使ってい
たせいだ。森が提案した当時に無理にもその案を行っていたら、そもそ
も戦争など起こらなかっただろう。というのが大体の志賀の意見である。
無茶苦茶だが一利ある。一利あるがやっぱりおかしい。それなら英語
を国語にと言えばいいのに、あえてフランス語と言っている点に不自然
さがある。

文中、志賀自身フランス語に通じていない事を告白していて、何故フラ
ンス語か?という問いの答えには、フランスには小説などにも良いものが
あるし、日本に通じるところがあるようなところがあるような気がする。
などと曖昧な理由しか書いていない。
先述したように、一国の国民が母国語を放棄し、別の国の言語を使うよ
うになるのは、ほとんど全ての場合植民地化を意味する。志賀直哉はそ
の作品からもつたわるように言語的には潔癖性とも思われる作家である。
言語の活用法がその国の文化、美意識の要になると信じていたはずで
ある。ようするに彼が言いたかったのは、
「同じ植民地になるならアメリカなんかよりフランスの方がいいや!」という
事だったのではないか。
勿論、一文学者がそんな事言ったて、GHQが
「さいですか、では我々はひっこんで、ここはフランスさんにおまかせを」
なんて言うわけないし、その当時の日本政府にそんな荒唐無稽な意見に
耳をかしている暇などなかっただろうが。
志賀はおおまじめに「技術的なことは私にはよくわからないが、朝鮮語を
日本語に切り替えた時はどうしたのだろう?」などと書いている。
勿論その時は、暴力と強圧でかえさせたのだが、それを知ったら志賀は
やはり日本でもそうしようと言っただろうか?
第一アメリカの植民地である今もいいとは言えないが、フランスなんてい
う人種差別論者の巣窟みたいな国の属国になったらもっと悲惨だっただ
ろう。
 
小説の神様当時63歳。まだ惚けるには早そうだが、それだけ敗戦、占領
のショックが大きかったともとれる。
志賀直哉はそれからまだ26年の齢をかさね、1971年の明日、83歳で死ん
でいる。三島由紀夫が死んだ翌年である。
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by shanshando | 2006-10-20 16:56 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 10月 19日

古本屋の掃苔帖 第三百二十五回 アン・サリヴァン

小学生の時読んだ「ヘレン・ケラー伝」は恐ろしかった。
当たり前のように自分が持っている感覚機能が失われた状態で
生きている人が実在したということに戦慄したのだ。
学校で誰かにいじめられたとか、嫌いな食べ物を食べられるよう
になるまで、お弁当にいれられたとか言うような事とは比較になら
ない絶望というものが世の中にあると言う事を初めて知ったのだ。
「戦争」という、やはり想像を超える不幸が嘗てこの国にあり、そうし
て同じアジアのベトナムというところでは、今も行われているという
事は知識として知っていたが、どこか今ひとつリアルに捉えられなか
ったのに対し、ヘレンの抱えた不幸というのは小学生の小さな脳で
も充分に想像しうる不幸だった。同じ不幸がいつか自分にも降り掛
かるのではないかと怖かった。
私は人一倍臆病な子供だったせいか、ほかにも色々な本に書いてあ
る怖い事に怯えていたが、「ヘレン・ケラー伝」はやっぱり一番怖い本
だった。
本を書いた人は、ヘレンがサリバン先生とあって、段々に不幸に打ち勝
っていく事を子供に読ませたかったのだろうが、私の印象はヘレンの三
重苦に釘付けされ、その後の感動的な展開など目にも頭にも入らなか
った。
母親にヘレンの三重苦に関して話したところ、「世の中には気の毒な人
が居やはんにゃ、健康に生んでもろて感謝せないかん」と頓珍漢な答え
が返ってきた。
違うんや、僕が言いたかったのは、自分の背後にも母親の背後にも人間
の背中には闇がへばりついているということなんや。
とは、当時は当然言えなかった。言えないばかりか、こんな不安な思いを
しながらまだ誰かに感謝しなければいけないのかと不条理な思いがした
だけだった。
母親は一体誰にたいして感謝しろと言っていたのだろう?
実際に出産した自分に、というよりはもうちょっと大きな存在、例えば仏さん
というようなものを指していたような気がする。
ウチは極一般的な真宗の門徒で、母も格別信心深いというわけではなかっ
たが、多くの日本の庶民の常識として仏教的な因果律が頭に染込んでいた
のだろう。

「奇跡の人」アン・サリヴァンの徹底した献身はキリスト教の教えに基づいてお
り、個々の生命に対する無常観を下敷きにしている仏教の教えからは、出にくい
人材だと思う。彼女のやり方が障害者教育のお手本のようにいわれるのは、
いかがなものかと思うが、確かに彼女の勇気が壁を打ち破ったことは確かだと
思う。
福祉は本当は宗教とは切り離されたところで行われるべきだろう。福祉事業に献
身した人を英雄視する風潮もおかしいと思う。重度の身体障害者を南の海で
イルカと共に泳がせるという、やらせバリバリの本を私の嘗ての共同経営者が
上々堂に持ち込もうとしたのを、話し合って阻止したことがあったが、その手の
偽善ぬきで、福祉がこの国に定着するためには、やはり教育が必要なんだろう
けど、少なくとも為政者が「美しい…」などという個人的な感慨をスローガンに
しているうちは、無理だと思う。

アン・サリヴァンは1936年の明日10月20日70歳の生涯を閉じた。
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by shanshando | 2006-10-19 16:59 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 10月 17日

古本屋の掃苔帖 第三百二十四回 葉山嘉樹

昨夜、吉祥寺の某所で生意気にも蟹なんぞを食していたら、そう
いった「高級というのじゃないけど、結構お金のかかる食い物屋」
には、つきもののスケベ爺が女性に飯を食わせて、くどき落とそう
としている。という光景が隣のテーブルで展開していた。
爺は70代、奥さんに先立たれ、娘がいるがそりがあわず、出来れ
ば若い(自分よりは)愛人を作って、遺産をやることを条件に末期
を看取って貰おうという作戦らしいが、これまでに何度も失敗して
いるということが、大声で話される会話から嫌がうえにも伝わって
くる。
女性は50代、おそらく爺の持っている不動産の店子で、さりげなく
牽制しながらも、完全につれない態度をとる事は出来ないでいるよ
うで、会話の端々に相変わらずの不景気を嘆く言葉がもれる。
「景気が良くなったっていうけど、一体どこで良くなったっていうのか
しら?」
「はは、そんなもん自民党に入れるからだよ。あのなんとか言う女
親分にいれなきゃ。」
女親分って誰だ?田中真紀子?福島瑞穂は親分ってガラじゃない
し、まさか土井たか子のことを言ってるのかなぁ?爺がパチンコ屋
もやってたりするとそれもありえるなぁ。
私と同席していた人は、非常に不快そうにしていたが、私はこの絵
に描いたような俗物爺が嫌いではない。
大病をするまでは肉を食いまくっていたという言葉を証明するように
顔面が萎みかけた脂肪で覆われている。まるで「業」という言葉を
煮凝りにしたような顔だ。

私の見立てどおり70代として、元々吉祥寺あたりの地主の息子だ
とすると、爺が生まれる前から成人するくらいまで、このあたりには
プロレタリア作家とよばれる人たちが住んでいた。爺の家の店子に
も一人くらい居たかも知れない。
そのころは、武蔵野の森に民家が点在している程度だったこの土地
は、巨大な繁華街になり、プロレタリア作家たちの殆どは人々の記憶
から消えうせ、その作品も読み返されることは少ない。
イデオロギーに足を絡めとられた頭脳は感性を束縛し、どの作品も
はっきりいってつまらないのだ。

葉山嘉樹に「セメント樽の中の手紙」という作品がある。
読んでいる側が恥ずかしくなるほどの単純な人間感で辟易するが、
セメントの原料に使う岩石を砕く機械に落ちてしまって、自らセメント
の材料になってしまうというグロい発想が、若干買える。
果たして、脂肪やたんぱく質の塊である人間がセメントになりえるか、
どうかは別にして、セメントになった恋人がどんな建物の一部になった
のかを知りたがる男の恋人の病的な幻想は、描き方次第では面白く
なり得たかもしれない思う。

さて、蟹屋のすけべ爺であるが、所有している土地のひとつが遊んで
いる状態らしく、そこに3千万かけて何か建てようとしているらしい。
上モノが3千万程度ということは精々アパートぐらいの規模だろうが、
女性は歯に衣着せず、老い先短いのに3千万かけて結果を見届けら
れない事業など馬鹿馬鹿しいからやめろと諌める。爺は事業は俺の
趣味だという。趣味で3千万!
財布からなけなしの5千円を消費者金融という名の高利貸しに奪われ
死を考える年寄りがいる時代に、趣味で3千万!
爺!余生を愛欲に溺れて生きたかったら、あんまり具体的な金額を
口にしないほうがいいよ。そうじゃないと、その3千万で造る建物のセメ
ントにされちゃうよ。

1945年の明日10月18日、小林多喜二ら後進のプロレタリアート作
家に強い影響を与えた作家 葉山嘉樹が満州開拓村からの引き揚げ
の列車の中で脳溢血のため死亡した。
享年51歳
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by shanshando | 2006-10-17 16:50 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 10月 14日

古本屋の掃苔帖 第三百二十三回 ヘルマン・ゲーリング

「もちろん、国民は戦争を望みませんよ。運がよくてもせいぜい
無傷で帰ってくるぐらいしかない戦争に、貧しい農民が命を賭け
ようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。
ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも
同じことです。政策を決めるのはその国の指導者です。
そして国民はつねに指導者のいいなりになるように仕向けられます。
国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、
平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいの
です。このやりかたはどんな国でも有効ですよ。」

ナチスドイツのナンバー2、モルヒネ中毒で美術品泥棒のファシスト
の豚が、ニュールンベルク裁判で述べた言葉である。
ヘルマン・ゲーリングが無実を主張したにも関わらず、この裁判で
うけた判決は絞首刑であった。銃殺刑ですらなかったことに悲観
した豚は、外部の協力者から得た青酸カリで1946年の明日10月
15日自殺している。
享年53歳
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by shanshando | 2006-10-14 14:44