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上々堂(shanshando)三鷹

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2005年 12月 23日

古本屋の掃苔帖 第百三十七回 ブルーノ・タウト

1933年、ドイツの建築家ブルーノ・タウトは福井県敦賀港に
上陸した。親ソ派と疑われ、身の危険を感じ、ナチスが支配し
ていた故国から亡命してきたのである。
もともと、アールヌーボやジャポニズムの影響で日本に並々
ならぬ興味をもっていたタウトは伊勢神宮や桂離宮を訪れて
感激したが、当時の日本は日独伊三国同盟によりナチスドイツ
との関係を強固にしている最中で、在独当時から集合住宅の
設計などにより(同潤会アパートはこれを手本にしたといわれ
ている)すでに世界的に名声を得ていたタウトに相応の仕事を
与える、国の機関や大学はなかった。
ようやく、救いの手を差し伸べたのが当時フランス帰りで、群馬
県高崎を中心に工芸運動をやっていた井上房一郎である。
井上の父保三郎は例の高崎観音をおっ建てちゃったおっさんで
ある。井上親子にはひとかたならぬ世話になっていたタウトもこ
れだけは真剣にとめたらしい。
おそらくはスパイであることを危惧した日本の警察当局はつねに
タウトに見張りをつけていたらしく、井上はタウト夫妻が安心できる
仮の住居として少林山達磨寺にある洗心亭という庵を世話する。
わずかに6畳間がひとつと4畳半がひとつという狭い庵は、当初
あくまで100日間かぎりの仮住まいの予定が、「方丈記」なども
読んでいたタウト自身がここを気に入り、結局トルコ国からの招聘
で日本を去るまでの2年3ヶ月をここで過ごしている。
1965年に日本を去るまで、結局タウトは本業である建築の仕事は
何もしていないが、その後の日本のインダストリアルデザインに残
した影響は多大なものがあり、また桂離宮などの日本の建築文化
を海外に紹介した数々の著書を残した。
日本を去るときの送別の宴で、日本がヒットラーと組んで戦争に突入
することの愚を説き、いずれまた戻ってくると約した彼だが、やがて
突入してしまった戦争の行方を確かめることもなく、トルコボルボラス
海峡を見渡す土地で脳溢血のために死亡した。
享年58歳

by shanshando | 2005-12-23 17:37 | ■古本屋の掃苔帖


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