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上々堂(shanshando)三鷹

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2006年 01月 31日

古本屋の掃苔帖 第百六十八回 エディ・タウンゼント

昭和37年ハワイでボクシングのトレーナーとして定評を得
ていたエディ・タウンゼントをほぼ無理矢理日本に連れてき
たのは力道山である。
渋谷にリキ・スポーツパレスを建てたのを期にボクシング興
行にも乗り出そうとしていたのだ。ボクシング界には彼の参
入を望まない声が多かった。ショウであるプロレスとボクシ
ングが同様に見られる事を嫌ったのだ。
私は、案外実は力道山自身も自らが率いてきたプロレスのシ
ョウ的な部分にそろそろ飽きがきていて、現在の異種格闘技
戦のようなものを将来的に視野においていたのではないかと
思うのだが、その話は今はとにかく置く。

さて来日してはじめて、リキ・スポーツパレスのジムを訪れた
エディはそこに置かれていた数本の竹刀をすぐに片付けるよう
に指示した。それが何のために其処に置かれているかを直感的
に理解したからである。幸い力道山は遠征中でその指示はすぐ
に実行された。いれば一波乱あったかもしれない。
竹刀で選手にいわゆる「カツ」をいれるのは、相撲出身の力道
山にとっては一番手慣れた指導方法で、日本プロレスでも大い
に振り回していたことだろう。
ボクシングというのは、基本的に西洋の個人主義の象徴みたい
なスポーツで、選手はどこまでも自分のために闘う、相撲や日本
型のプロ野球とは違って、「伝統」のためとか「巨人愛」などと
いった種類の共同幻想は介在しえない。
プロになって、激しいトレーニングや過酷な減量に耐え抜いても
栄冠を得られるのはほんの一握りで、世界チャンピオンにならな
い限り、経済的にもアルバイトをしなければ成り立たない。過度
にストイックな状況に耐え抜く事ができるのは偏にナルシズムの
ためなのだ。そういうスポーツで選手のプライドを傷つけるよう
な「お仕置き」などなんの役にも立たない。
実際に選手の指導方法をめぐって、エディと力道山の間に論争が
あったかは知らないが、おそらく二人が共にいた時間が永ければ
必ずぶつかった事だろう。幸いといってはいけないが、力道山は
その翌年ヤクザに刺された傷がもとで死んでいる。
一時的には、うしろだてを失ったような形になったエディには、
戸惑いもあっただろうが、すぐに藤猛という逸材にめぐり遭う事
で、トレーナーとしての実力を日本のプロボクシング界に知らし
める事になる。

生涯で育て上げた世界チャンピオンは実に六人。
他のトレーナーが初心者のころから育て上げた選手を育ったとこ
ろで、横から取り上げるというような言い方で彼を避難する同業
者も随分いたようだが、つまりはこれも師弟関係という日本的な
共同幻想にとらわれて、プロフェッショナリズムに徹しきれない
人間の愚痴に過ぎない。選手は自分のために闘い、トレーナーは
自分のプロ意識のために指導するのだ。
エディはつねに片言の日本語で「ボクはラブで教える」と言って
いたと云うが、それはその選手の才能をまっすぐに見つめる愛で、
選手を自分の所有物と混同する愛ではない。

1988年1月31日、彼が最後に育てた世界チャンピオン井岡弘樹の
初の防衛戦を見守る為に癌に蝕まれやせ衰えた身体で会場に赴いた
エディは、試合開始直前、意識不明、呼吸困難に陥りそのまま病院
に搬送された。
井岡はエディの危篤を知らないまま闘い、苦戦したが結局TKO勝ち
し、意識不明のエディに娘が井岡の勝利をつげると奇跡的に意識が
一瞬もどりVサインをしてみせたという。
多くのトレーナーがボランティア同然の待遇で選手を指導していた
日本のプロボクシング界で仕事に見合った報酬を請求するプロのト
レーナーとして生きた彼は、最後の試合もきっと井岡とともに闘っ
ていたのだろう。
エディ・タウンゼントは1988年の明日2月1日の午前1時亡くなった。
享年73歳

by shanshando | 2006-01-31 22:32 | ■古本屋の掃苔帖


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