上々堂(shanshando)三鷹

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2006年 03月 14日 ( 1 )


2006年 03月 14日

古本屋の掃苔帖 第二百四回 堀口大学

堀口九万一は例の米百俵の越後長岡の人である。
戊辰の役で父を亡くし、学をもって捲土重来を図るべく
刻苦勉励、甲斐あって東京帝国大学法学部に入学がかない
嬉しさのあまりか、在学中に誕生した子どもに「大学」と
名付けた。訳詩集「月下の一群」の詩人堀口大学である。

卒業後、登用試験に合格して外交官になった九万一は赴任し
た仁川で一年後、非職となる。つまり懲戒停職である。
理由は閔妃暗殺事件の責である。赴任して一年の新人官僚の
彼がはたして事件に直接関わったのか、あるいは側杖を食っ
ただけなのかはわからないが、その後事件に連座した与謝野
鉄幹との交友が有るところを見ると、結構関わっていたのかも
しれない。無論いずれにしても実は公務としての謀略であっ
ただろうけれど、あんまりいい役ではない。結局、賊軍出身
者の彼に汚れ仕事を押し付けたということか?一年後復職す
るが、書記官として赴任した場所はメキシコ・ベルギー・ス
ペイン・ルーマニア、当時の国際情勢からみてあきらかにド
サ回りである。後輩の吉田茂の赴任先からみると明らかに淋
しい土地である。つまり、小林虎三郎センセイの英断も藩閥
の壁は破れなかったわけである。

図らずも名の出た吉田茂がやはりそうしたように、九万一も
子息を任地に呼び寄せた。吉田は知らず、九万一の場合はお
そらく息子を国際人として国家有用の人材に育成し、出来れ
ば自分が官途において果たせなかった捲土重来を果たさせた
かったのであろう。こういう夢は、往々にして破られる。
メキシコに呼び寄せた19歳の息子は結核を患っており、健康
上の不安からできれば官僚にではなく文士になりたがった。
九万一はあきらめた。彼自身もともと文芸に趣味があり、む
しろ息子を応援してやろうと思った。このあきらめが結果と
しては功を奏したと云って良いだろう、もし無理をして外務
官僚などになっていたら、日本文学史上の損失となるだけでは
なく時節柄どんな運命をたどったか知れたものではない。

官途につかず詩文に遊ぶ息子は、33歳まで父の任地にくっつ
いて回り、卓越した語学力と詩人としての感性を磨いた。
第二次大戦中、官能とエスプリにみちた彼の文学は受難の時を
迎え逼塞するが、戦後その詩魂は蘇り、生涯に300点という膨
大な著書訳書をものにし、1981年の明日3月15日、急性肺炎
の為89歳の大往生をとげる。
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by shanshando | 2006-03-14 20:59 | ■古本屋の掃苔帖