上々堂(shanshando)三鷹

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2006年 03月 19日

古本屋の掃苔帖 第二百九回 天竜三郎

岡崎さんの「気まぐれ古書紀行」の冒頭を飾る大森 天誠書林
の和久田さんのお父さんである。昭和のはじめに美貌と、長身
を利用した柔軟な取り口で人気を博した相撲取りで、関分まで
昇進したが、大関を前にして力士の地位と生活の向上を訴えた
「春秋園事件」を起こし相撲協会を脱退、大日本関西角力協会
などを設立するが振るわず、昭和12年これを解散して他の力士
たちは相撲協会に復帰したが、彼は大陸にわたり満州での相撲
の普及に力を尽くしている。さてその満州で……。

パンッ!(以下講談調。ということは半分以上作り話ですよ)
時は、天竜渡満以来2年の月日がながれました昭和14年4月の事
新京でおこなわれた武道大会を訪れた天竜は、そこで行われてい
るひとつの試合を観て、嫌ぁな顔を致しました。その試合とは、
一人の小柄な老人が素手で真剣をもった剣士を吹っ飛ばすという
もので、こりゃどう観たってインチキ、出来試合、相撲で云えば
3代目若乃花得意のゴッツァン相撲。この神聖な武道大会でこの
ような恥知らずを行うとは、いかな取るに足りない年寄りとはい
え許せない。大男のワシが老人を虐めるようであまり良い図では
ないが、ここは一番武道の尊厳のため懲らしめてくれよう。
「ご老人っ!ワシは天竜三郎と申す相撲取り、見れば大層なお腕
前と見えるが、一手お教えを願えぬか!」
群衆の中より名乗りをあげた大兵をチラッと見上げた老人はやがて
相好をくずし、
「オー、ユーが天竜のサブちゃんかい、OK!かかっておいでカモン
プリーズ」なんてそんな事は云わなかっただろうけど、
「よろしい、刀を持つかね?」
「なにを!年寄りと思って下手にでれば許し難いその増上慢、手加
減せぬから覚悟しろっ」
「そうかい、じゃあわしの方で手加減してあげよう。
「黙れっ!」怒髪天を突かんばかりの形相で躍りかかった天竜の手が
老人の身体に触れるやいなや、はたして何処をどうしたことか前身に
電流を流されたような痺れが走り、気がつくと大男は地面におねんね
していた。
さて、ご存知のむきはとっくの昔に気がついていただろうけれど、こ
の老人こそ合気道開祖 植芝盛平、満州時代のこの頃は相手がピストル
を撃ってきても弾丸が全部見切れるので難なく躱せたという、往年の
長嶋茂雄、川上哲治もビックリという爺さん。
ああ世の中には、凄い人がいるもんだと就く尽くどちらが増上慢であ
ったか思い知った天竜は、あらためて辞を低くして弟子入りを乞い、
修行70余日にして免許皆伝に達したというから、こちらも大した物。
以上「天竜三郎と植芝盛平出逢い」の巻、これにて一席の読み切りと
致します。パパンッ!って終わっちゃいけないけど。

さて、満州でそんな出逢いがありつつもやがて敗戦で引き上げてきた
天竜は、戦後銀座でスポーツ用品店と中華料理店を経営します。余程
中華が好きだったとみえて、そういえば春秋園事件の春秋園も大井町
の中華料理屋だったし、息子の天誠さんも五反田の市の帰りには必ず
駅前の中華料理屋さんで食事しているようだ。

春秋事件では破れた天竜三郎だが、昭和16年には請われて協会顧問に
就任、(このへんは多分満州関係で軍部の力が関与したのかもしれな
い。)戦後の協会改革には春秋園で彼が訴えた改革案の殆どが用いら
れ、解説者、評論家としても活躍して1989年の明日、3月20日85歳
の天寿を全うし他界した。

尚、プロレスラーになった天龍源一郎は天龍でいいみたいだけれど、
こちらは天竜が正しいようである。戦後は中華屋の名前の関係もあっ
て天龍と名乗ったのかもしれない。
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by shanshando | 2006-03-19 15:59 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 03月 18日

古本屋の掃苔帖 第二百八回 南都雄二

上方漫才の夫婦コンビは離婚しても仕事はそれまで通りという
パターンが多いが、蝶々・雄二がその先駆けではないか?
離婚の「先駆け」というのも変だが、大抵の場合原因は男の浮
気であり、女性が我慢する事になる。上方男は顔がヘチャムク
レでも弁が立ち,こまごまと気がつくので中々もててしまう。
まるでそれこそ「夫婦善哉」の維康柳吉だ。

関西の男が全部色事師であるかのように書くと苦情がくるが、
女をひっかけて泣かそうなどという悪辣な底意があってするの
ではなく、生まれながらの「しょう」のようなものに突き動か
され「気がつくと口説いていた」という男は少なくないようで
ある。それも、「コレはまずいだろう」というような関係・シ
チュエーションの場合にかぎって「しょう」が堪えてくれなく
なるのだ。
「ああ、今この子に手ぇ出したらいかんな、我慢せんといかん
なぁ。」そんな事を頭では判っているのだけれど、関西の男の
場合口が脊椎反射で動いている場合が多いので、頭は「いかん
なぁ」と思っていても口は関係なく「僕と共鳴せえへんか」な
んて事を言っていてしまったりするのだ。

南都雄二の場合、商売の漫才の上で女房は師匠で台本作者で花
形で、つまりは殆ど「オンブにだっこ」の状態であったわけだ
から、裏切りはすなわち「飯の食い上げ」になる可能性を充分
すぎるほど意味していた。なのに、イヤつまりだからこそ若い
頃から浮気の蟲をおさえかねた。幸いというべきか、女房の蝶
々には一般人とことなる芸人の常識が染み付いており、男は浮
気をするもので、それはすなわち「芸のこやし」であると思っ
ていたので、少々の浮気には目をつむった。どころか一緒に名
古屋の中村遊郭にあがった事もあるという。まぁ男にとっては
願ってもない都合のいい女房である。
ところがそんな二人でもやはり遂に破局はやってくるのである。
雄二が外に子供をこしらえてしまうのだ。子供の頃から家庭的
に恵まれなかった蝶々は、子供に憂き目を味あわせる事だけは
したくなかった。
「しょうがない、別れましょ」
「それであの商売は…?」恐る恐るお伺いをたてる雄二に蝶々は
「商売は続けるっ!」
昭和37年、蝶々42歳、雄二37歳の年である。

こう書いて来ると随分あっさりと別れたように思えるが、実の処
煮え湯を飲まされた蝶々は面白いわけがなく、相当辛い思いをした
事をその著書に書いているが、実は蝶々のほうにも若い頃に前夫
三遊亭柳枝をその前妻から奪った過去があり、因果がめぐってきた
と思わざるを得ない状況もあったのだ。そうして、やはり女癖の悪
かった柳枝から逃げ出す時に手と手を取り合ったのが南都雄二であ
ったのだ。

別れて10年のうちには、結構別れた亭主の家庭とも親戚づきあいす
るようになっていた蝶々は、雄二に結婚していた時とは違う愛情を
感じ。二人はともに人気番組「夫婦善哉」に出演し続けていたが、
昭和47年雄二は43歳のころから患っていた糖尿病が悪化、ガリガ
リに痩せ細り遂に入院生活にはいる事になる。その頃には後妻との
中が冷え始めていた雄二の世話を蝶々は甲斐甲斐しく看続ける。ま
るで、若い頃ヒロポン中毒に陥った蝶々の面倒を献身的に看続けた
雄二に借りを返すように、イヤまた元の夫婦に戻ったように。
しかし、看病の甲斐なく南都雄二は昭和48年の明日、3月19日他界
する。享年48歳であった。
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by shanshando | 2006-03-18 21:27 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 03月 17日

古本屋の掃苔帖 第二百七回 吉野作造

吉野作造は民本主義を主唱した大正デモクラシーの仕掛け人である。
宮城県志田郡古川町に生まれ、県立一中から二高、東京帝国大学法
学部政治科と進み、銀時計をもらって卒業している。
県立一中というのは現在の県立一高であり、後輩のひとりに作家井上
ひさしがいる。その縁で現在井上は「吉野作造記念館」の名誉館長に
なっていて、また吉野作造と弟の信次を主人公にした「兄おとうと」という
芝居を自身の劇団「こまつ座」で上演している。

井上と吉野は単に学校の先輩後輩というだけではない共通点が見られ
る。まずともにキリスト教の強い影響を若年のうちに受けていることが
あげられるが、それよりも強く感じられるのが共に持つ東北人らしい優柔
と真摯である。このふたつは言うまでもなく表裏一体の関係にある。
遅筆堂の名で知られる井上の優柔はいまさら言うまでもないだろうが、
吉野の優柔とは何か?それはまず彼の主唱した民本主義と言う言葉に
表れている。

帝大助教授時代に欧米に留学した彼は、デモクラシーを日本に根付か
せる必要を感じた、そしてその適当な訳語を探して見つけたのが「民本
主義」である(彼以前にもこの言葉を使った例があるので彼が造った言
葉ではない。)民主主義ではまずいと考えた、大日本帝国憲法では主
権は天皇にあることになっているからである。そこで、法理上の主権の
所在を濁したまま、政治上の主権は国民にありとして、そのために普通
選挙の実施を促したのだ。あきらかに明快さに欠ける主張で、ために彼
は左右両派からの批判を受けることになる。

その他満州国成立に関しても当初批判的であったにも関わらず(人道上
の問題だけではなく、むしろその為アメリカとの関係が悪化することを見
通していたようである。)成立したら、やはり日本国民としてはこれに協力
するべきだとの論調に変わっている。
大正期の政治思想上の引導者の立場にあった彼のこうした優柔が、あの
愚かな大東亜戦争に日本を引きずり込んだ一因となったと言っても言い
すぎではあるまい。
しかし、彼自身は日本のそうした運命を見届けることなく1933年(昭和8
年)の明日、3月18日湘南サナトリウムで結核のため他界している。
享年55歳。
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by shanshando | 2006-03-17 15:46 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 03月 16日

古本屋の掃苔帖 第二百六回 安井かずみ

歌謡曲というものは、なんだか甘ーいケーキみたいで。大の男が
キャピキャピ反応するのは恥ずかしいけれど、誰も見てなければ
ちょっとクリームを嘗めてみたりして顔をほころばせたりする物
なのだ。

私はどうやら稀に見る絶望的な音痴であるらしく、人に言わせる
と「わざと外しているとしか思えない」というほどの堂々たるも
のなのだけど、迷惑な事に酔うとやたら歌いたがる。
演歌も好きだし、沖縄民謡やフォークソングも好きだが、やはり
最近は1970年代の歌謡曲がいい。
つまり、ジュリーや南沙織、西城秀樹だとかそういう人たちがア
イドルだった時代の歌である。
酔いにまぎれて羞恥心をかなぐり捨てて歌うと、時に涙がこぼれて
くる。別に音痴の害毒で自家中毒をおこして苦しんでいるわけで
はない。セーシュンの苦い記憶に思いを馳せカタルシスに酔い痴
れるのだ。あーあ恥ずかし。
歌詞本を繰っては、記憶に残っているタイトルがあると、歌えも
しないくせにやたらマイクを握りたがる。その歌詞は不思議と阿
木曜子だとか安井かずみのものが多い。
実際その曲が流行っていた頃は、さも軽蔑したかのように横目で
睨んでいた歌たちである。
1960年生れの私には。その歌たちが流行っていた頃がちょうど
ティーンエイジで、5歳うえの姉たちが聞いていたなかにしれいの
歌は大人過ぎて良く判っていなかった。

安井かずみは阿木曜子より作るものにはばがあって、「わたしの
城下町」も作れば、「危険な二人」も作り、となりのミヨちゃん
の歌も作っていたりする。職人なのだ。
文化学院の学生時代から作り始めて、30数年のうちにJASRACに
登録されている歌だけで1000曲を越すらしい。「雪が降る」や
「ドナ・ドナ」などの訳詩もそうだとか、うーん稼いだんだろーね。

今、古本の世界では彼女のエッセイ集が人気がある。宇野亜喜良の
絵がついてる本などはすぐ売れちゃう。
1994年のダ・ヴィンチ10月号の表紙は彼女が飾っており、「ガン
関係ないね」という標題がついているが実際その号が出た時には彼
女はこの世にいなかったはずである。
その年の3月17日に肺癌で55歳の早すぎる人生の終焉を迎えたので
ある。
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by shanshando | 2006-03-16 18:14 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 03月 15日

古本屋の掃苔帖 第二百五回 藤村有弘

ホモだったと云う話は、立川談志師の著書などで有名だが
なるほどと思う、身綺麗で洒落ていて目に独特のうるをい
を感じる。
ホームページ「VILLA di BANSA」は藤村有弘を偲ぶサイ
トだが、管理人は文章などから彼に近しい立場の人だと推測
出来るが、どういう関係の人かは不明である。(いいねぇ)
デザインが洒落ていて、偲ぶファンが楽しめるように、例の
でたらめ外国語も各国語別にメディアプレイヤーで聴けるよ
うに作られている。そうして、藤村に対する細やかな愛情が
そこここに見られ、うーんこれはなかなかうーん。
詳しいことは末尾にリンクを張るので、そっちを観ていただ
くのが一番だろう、

昭和9年に神田三崎町に生まれたバンサこと藤村有弘は、少
年の頃からSWL(短波帯ラジオ受信)を趣味としていた。
ここで私はハタと膝を打つのだ、以前書いた愉快な物理学者
R.P.ファインマンも子どもの頃ラジオが趣味で、でたらめイタ
リア語を習得して周囲をけむにまく、どうもあの芸はやはりラ
ジオという音声にのみ集中するメディアがあったればこそのも
のらしい。ニックネームのバンサもそれで聞き覚えて真似た東
南アジア語の音が「バンサ バンサ」と聴こえたところから来
ているらしい。
児童劇団にいた頃から「鐘の鳴る丘」「三太物語」などのラジオ
ドラマに出演していた彼は、戦後放送文化の申し子のような存在
だった。(そういえばドン・ガバチョもテレビの中から出てくる
んじゃなかったっけ?)その後千葉信夫の弟子となり、日活入り
、怪しい外国人の役などで売り出すが、私達がいつまでも印象に
強く残しているのは、先述のドン・ガバチョやお洒落でキザで怪
しいあの話芸である。もし、現代に彼が生きていても充分時代に
乗り切れるだけの芸をやってみせたであろう。

短波帯ラジオの趣味はその後HAMへと移行し、相当な熱の入れ様
だったらしいが今ならきっとコンピューターに凝っていたのでは
あるまいか。
電波の申し子藤村有弘は静岡放送の「藤村有弘の東海道それゆけ
4時間!!」という番組の終了後病院に運ばれ、1982年の明日3月
16日糖尿病の合併症により他界した。享年若干48歳。今生きて
いたら72歳まだ充分現役で務まる年齢である。


「VILLA di BANSA」へはこちらから

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by shanshando | 2006-03-15 20:41 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 03月 14日

古本屋の掃苔帖 第二百四回 堀口大学

堀口九万一は例の米百俵の越後長岡の人である。
戊辰の役で父を亡くし、学をもって捲土重来を図るべく
刻苦勉励、甲斐あって東京帝国大学法学部に入学がかない
嬉しさのあまりか、在学中に誕生した子どもに「大学」と
名付けた。訳詩集「月下の一群」の詩人堀口大学である。

卒業後、登用試験に合格して外交官になった九万一は赴任し
た仁川で一年後、非職となる。つまり懲戒停職である。
理由は閔妃暗殺事件の責である。赴任して一年の新人官僚の
彼がはたして事件に直接関わったのか、あるいは側杖を食っ
ただけなのかはわからないが、その後事件に連座した与謝野
鉄幹との交友が有るところを見ると、結構関わっていたのかも
しれない。無論いずれにしても実は公務としての謀略であっ
ただろうけれど、あんまりいい役ではない。結局、賊軍出身
者の彼に汚れ仕事を押し付けたということか?一年後復職す
るが、書記官として赴任した場所はメキシコ・ベルギー・ス
ペイン・ルーマニア、当時の国際情勢からみてあきらかにド
サ回りである。後輩の吉田茂の赴任先からみると明らかに淋
しい土地である。つまり、小林虎三郎センセイの英断も藩閥
の壁は破れなかったわけである。

図らずも名の出た吉田茂がやはりそうしたように、九万一も
子息を任地に呼び寄せた。吉田は知らず、九万一の場合はお
そらく息子を国際人として国家有用の人材に育成し、出来れ
ば自分が官途において果たせなかった捲土重来を果たさせた
かったのであろう。こういう夢は、往々にして破られる。
メキシコに呼び寄せた19歳の息子は結核を患っており、健康
上の不安からできれば官僚にではなく文士になりたがった。
九万一はあきらめた。彼自身もともと文芸に趣味があり、む
しろ息子を応援してやろうと思った。このあきらめが結果と
しては功を奏したと云って良いだろう、もし無理をして外務
官僚などになっていたら、日本文学史上の損失となるだけでは
なく時節柄どんな運命をたどったか知れたものではない。

官途につかず詩文に遊ぶ息子は、33歳まで父の任地にくっつ
いて回り、卓越した語学力と詩人としての感性を磨いた。
第二次大戦中、官能とエスプリにみちた彼の文学は受難の時を
迎え逼塞するが、戦後その詩魂は蘇り、生涯に300点という膨
大な著書訳書をものにし、1981年の明日3月15日、急性肺炎
の為89歳の大往生をとげる。
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by shanshando | 2006-03-14 20:59 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 03月 12日

古本屋の掃苔帖 第二百三回 加太こうじ

1918年、つまり大正7年に浅草の神吉町に生まれている。
同年生れの人には、田中角栄、6代目松鶴 いわさきちひろ
などがいて、加太こうじを中心に並べてみるとなんとなく共
通点が見えてきそうな顔ぶれである。

5歳で大震災に遭い、9歳の時家のすぐ側を日本初の地下鉄
が通っているが、ちょうどその時分は荒川区の親戚の家に預
けられていたかもしれない。なにしろしかし東京の下町の時
代にともなう変遷をみて育ったわけだ。
14歳から収入を得るため紙芝居の絵を描き始め、昭和34年に
廃業するまで27年間描き続けて、戦後はその世界のドンのよ
うな存在であったらしい。

ドンと云っても、その著書を読むとわかるように頑固なマル
クス主義思想の持ち主で、かつ下町人らしい世話好きの彼は
名利を思うがままにしたというわけではないらしい。
丸山真男達がやっていた「思想の科学」が、嶋中事件にビビっ
た中央公論に見放された時に続行するための金をだしたりして
いる。
また、講談師で古本屋の田辺一鶴師が「長嶋茂雄物語」や「東
京オリンピック」などという新作ネタで売り出した時も、その
案を練り試演したのは、加太こうじの家に集まっていた人たち
の前で、そのグループのひとりに水木しげるもいたという。
ようするに親分肌のマルキストという事か。赤旗の日曜版など
も手がけていたらしいが、小学校しか出ていない彼は学歴優先
の傾向が強い共産党とはなじまなかったらしい。

代名詞のようにいわれる紙芝居「黄金バット」は、永松武雄と
いう画家から彼が引き継いだもので、彼自身の完全な創作では
ない。また、「日本のやくざ」や「下町の民俗学」等の著書は
面白いのだが、ともすると話がマルキシズム的傾向を帯び、そ
こがちょっと読んでてつらい。
1998年まで生きていて、共産主義の実質的崩壊も目の当たり
にしているわけだから、それに関する発言も何処かでしている
かと探してみたが見つからなかった。

加太こうじは1998年の明日、3月13日心不全で他界している。
心不全というのは往々にして老衰などで病名が特定しにくい時
に医者が使う手だから、ようするに老衰だったのだろう。
享年80歳
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by shanshando | 2006-03-12 15:35 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 03月 11日

古本屋の掃苔帖 第二百二回 エイサ・キャンドラー

エイサ・キャンドラーが生まれた1851年、彼の人生に間接的な
影響を与えた法律の火種が、アメリカ メーン洲で生まれている。
禁酒法である。はじめピューリタンの影響で州法として制定され
たこの法律はやがて第一次世界大戦中の穀物不足のあおりを受け
全米に広がり、1920年には正式に全米で施行された。

エイサ・キャンドラーは、コカ・コーラの創業者である(ただし
発明者ではない、発明者はジョン・S・ペンバートンという薬剤師)
なぜコカ・コーラの創業者の人生に禁酒法が関係するかというと、
ジョージア洲アトランタで生れ、のちに世界を席巻するこの飲料は、
初期には酒の代用として広がったからである。

有名な話だが、初期のコカ・コーラは成分にコカインを含んでいた。
コカインは当時まだ合法で、中毒や禁断症状に関しても問題にされ
ていなかった。前述の発明者ペンバートンがこれを創る段階の話は
また後日書くが、兎に角キャンドラーがこの飲み物の製法を買い取
った段階では、立派に「よく効く」飲み物だったのだ。
コカインというのは、私は知らないが非常に身体と意識を覚醒させる
らしい。アメリカ南部の農園では主人が奴隷にこれを食事がわりに与
えていたということも聞く。
なにしろ、教会や州政府に酒を飲んじゃいけないなんて野暮な事を云
われて、みんな腐りきっていた処にこういう有り難い飲み物ができた
というんで、瞬く間に全米で俺もコカ・コーラ我もコカ・コーラと大
人気、中には原液を決められた4倍の濃度で売る店も出てきたりして、
そうなるとこれは必然的にやがてコカインの中毒症状が明るみに出る
事になる。
中には毎日これを10数杯飲み続けていた少年がやめた途端に重度の禁
断症状に陥った事例などもあり、当然コカ・コーラ社は世間の非難を受
け、社長のエイサ・キャンドラーは原料からコカイン成分の除去を命じ
ざるを得なかった。ただコカの葉を全く用いないとコカ・コーラと云う
商標と矛盾が起きるのでコカの葉から99.99%のコカイン成分を除く事に
したらしい。らしいというのはコカ・コーラの原料に関しては未だに7x
という表現で秘密にされているからだが、ということは我々は原料の不
明確なものを飲まされている事になるが、厚生省がこれに苦情を言った
という事は聞いた事がない。とにかくどうやら今でも少ーしだけは入っ
ているらしい、コカインが。
さて、殆どのコカイン成分を除去したコカ・コーラだが、まさか「もう
抜きましたから安心です」とは宣伝できない。すれば以前は使ってたと
云う事を告白することになる。色々口を濁して最後にはついに「コカ・
コーラは嘗て一度もコカインなど使用した事はない」と開き直ったとか。

とにかくこの騒動で大打撃をうけたキャンドラーは、巨額の費用を投じ
た広告戦略で失地を回復した。独特のビンの形からサンタクロースの衣
装にいたるまで様々な逸話があるが、興味のある方はマーク・ペンダグ
ラスト著「コカ・コーラ帝国の興亡 / 100年の商魂と生き残り戦略」を
読んでみて下さい。

コカ・コーラ創業者エイサ・キャンドラーは1929年の明日、3月12日
77歳で死んで、その4年後の1933年禁酒法は廃止されている。
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by shanshando | 2006-03-11 22:02 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 03月 10日

古本屋の掃苔帖 第二百一回 高品 格

ピカレスク小説は15世紀スペインに端を発しているらしいが、日本では
やはり「大菩薩峠」あたりがその嚆矢といえるだろうか?開高健の「日本
三文オペラ」と小松左京の「日本アパッチ族」は同じ題材を扱ったやはり
ピカレスクの名作といってよいだろう。しかし、私は日本ピカレスク小説
大賞を勝手にこしらえて贈るとしたら、やはり阿佐田哲也の「麻雀放浪記」
を選ぶ。池波正太郎の梅安シリーズは人殺しが主人公なんだから、ピカ
レスクと言ってもよいのかもしれないが、池波はどこか事の善悪にこだわ
る嫌いがあり、純粋なピカレスクとは言いがたい。
比べて阿佐田哲也は骨の髄までアンチモラルである。

「麻雀放浪記」が和田誠によって映画化された時、多くの阿佐田ファンは
不平をならした。おもな理由は「ドサ健」を演じた鹿賀丈史が甘味が勝ちす
ぎているというものだった。
真田広之の「坊や哲」は、まぁあんなものかもしれないが、もうすこし屈折
が欲しかった。加藤健一の「女衒の達」は女衒というより税務署の役人み
たいだった。(まぁ似たようなもんだが)
名古屋章と内藤陳は及第点、そうして唯一、大出来だったのが「出目徳」
を演じた高品 格だった。

「出目徳」の出目は勿論賽の目のことだが、活字で見ているとやはり容姿に
も目ん玉のイメージがかぶってきて、人並みはずれてつぶらな瞳の高品で
はイメージが違うというむきもあったが、あの目が実に凄みを出していた。
わざと逆モーションをやって、イチャモンをつけさせ開き直るシーンなどは
例えば大目玉の仲代達也が演じたとしたら、なんだかかえって滑稽な感じ
になってしまい。凄みどころではないだろう。高品 格の小さな目だからこそ
何を考えているか読めない不気味さがでる。
図らずも仲代達也をひきあいに出したが、仲代のギョロ目は無表情でいな
がら(無表情だからこそ)多くの劇的なニュアンスをかもしだすが、それは
いわば多弁な無表情であって西洋劇的であるが、高品の目は能面とか仏
像に見る無表情さで映像作品にする場合、このほうが市井無頼のくえない
悪党を演じるのに適している。

高品のあの独特の目は、若い頃高円寺のボクシングジムでプロボクサー
を目指していた時に作られたモノだろう。そののち、映画俳優に転身、出世
作となった石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」でボクサーくずれの用心棒を演じた。
晩年、石原軍団の「大都会」に出ていたのはこの時の縁なのだろうか?
役者というのは、作品に恵まれる事で運命が決していくアナタまかせな商売
なのだなぁ、と思う。
1984年に恐らくは多くの俳優がやりたがったであろうこの役に抜擢されな
かったら、高品 格は昔はアクションでならした事もある地味な脇役として一
生を終えていたかもしれないが、幸い適役を得た事で日本映画史上に記録
される名優となり、その10年後の1994年の明日、3月11日心不全で亡く
なっている。
享年75歳
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by shanshando | 2006-03-10 15:19 | ■古本屋の掃苔帖
2006年 03月 09日

古本屋の掃苔帖 第二百回 金子みすず

「夕暮れ下関駅に下りてみると、プラットホームにそれら
しい影は一向見当たらなかった。時間を持たぬ私は懸命に
構内をさがしまわった。ようやくそこの、ほの暗い一隅に、
人目をはばかるように佇んでいる彼女を見出したのであっ
たが、彼女は一見二十二三歳に見える女性でとりつくろわ
ぬ蓬髪に普段着のまま、背には一二歳の我が子を背負って
いた」
昭和2年の夏に、西条八十が金子みすずに会ったときの事
を彼女の死後、西条が追悼して書いた文の抜粋である。
「お目にかかりたさに、山を越えて参りました。これから
また、山を越えて家に戻ります」

大正の末年に彗星のように登場して、「若き童謡詩人の巨
星」といわれ、今風に言えばカリスマ的存在だった彼女は
しかし、私生活においては不幸な結婚に疲れ果てた弱い一
母親に過ぎなかった。
彼女の創る詩は、常に自然界の弱者の立場にみずからを喩
え、そこから見遥かした世界の絶望的な広さを謡い上げて
いるが、そこにはやはり死への憧憬の匂いがする。世界は
果てしなく広く大きく、私の生はこんなにも儚く健気であ
ると謡う事によって、現実の忌まわしさに抗う力を求めた
のだろう。
その同時代を東京で徒党し闘っていた女性たちとほぼ同じ
敵に向かい合いながら、山口県仙崎の地で孤軍であらざる
を得なかった金子みすずは、独自の生の主張という闘いを
闘っていたのかもしれない。

横暴無道な別れた夫が愛娘を奪い去りに来る前夜、彼女は
子をいつもより丹念に風呂で洗ってやり、何時もそうした
ように幾つもの童謡を謡って聞かせ、風呂上がりには桜餅
を食べ、そうしてその夜カルモチンを飲んで自死した。時
に昭和5年の明日3月10日。
彼女の死は、元夫への抗議のためであったと言われるが私
はそうは思わない、死こそは彼女の夢想の行き着く先だっ
たのであり、幻想の昇華する場所であったはずで、そこに
は愚かでみじめな凡夫などが割り振られる役処などなかっ
たはずだ。
享年26歳
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by shanshando | 2006-03-09 16:43 | ■古本屋の掃苔帖